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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月19日・屋島の合戦

1185(文治1)年の明日2月19日(太陰暦)に屋島の合戦が行われました。
平清盛を主人公にしたドラマなどでは、主人公の清盛没後、平家滅亡までをかなり端折って描くので、2月7日に一ノ谷で敗れ海に逃れた平家を追って源氏が瀬戸内海を渡り、讃岐の屋島で追い討ちをかけたように思われがちですが(昨年の大河ドラマ「平清盛」ではどちらもパスしていました)、実際には1年後の話です。
実は都落ちした平家は九州へ上陸し、太宰府に入って勢力の回復を図ろうとしたのですが、頼朝の挙兵と同時期に蜂起し、平貞能によって制圧されていた地元武士の抵抗を受けて果たせず四国に逃れ屋島に本拠地を得ていたのです。そして範頼・義経の鎌倉軍が木曽義仲と戦っている間にかつての都・福原まで戻り、一ノ谷合戦になりました。
その後、範頼軍が山陽道から九州へ進攻するのに平家は海路から攻撃を加えたので、義経がそれを掃討するため奇襲したのです。
平家物語ではこの時、梶原景時が前後左右に自由に動けるよう舟に逆櫓(さかろ)をつけることを主張したのに対し義経は「引く準備などは臆病者がやることだ」と退けて感情的なシコリを残し、平家滅亡後、先に鎌倉へ戻った景時が頼朝に行状を批判的に報告したことが義経の命運を定めました。
屋島へは多度津の少林寺拳法の本山へ行った折に訪れたことがありますが、細長く瀬戸内海に突き出した不思議な場所でした。それにしてもあの時代の小舟でどうやって軍勢の馬を運んだのか?当時の馬が小型であったとしてもそれだけで数隻が必要になり、むしろ平家の方が戦力は優勢だったのでしょう。
屋島の合戦のハイライトは平家が小舟の舳先に掲げた扇を那須の与一が射落としたことですが、この時、平家は海に逃れており陸戦では敗北していたことになります。
何故、ここまで弱かったのか?頭領の宗盛は戦さ下手だったとしても叔父の教盛、弟の知盛、従弟の教経(教盛の次男)などの勇将もいたはずなのにと首を傾げます。ただし、「吾妻鏡」によれば教経は一ノ谷の合戦で討ち取られ京で首を晒されています。
ただ、「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」ではこのように記述の食い違いが多く、「前の2つは所詮は物語、吾妻鏡は公式記録だ」と言う研究者と「吾妻鏡は伝聞を鎌倉の主観で記録したもの過ぎない」と言う歴史家で意見が分かれています。
  1. 2013/02/18(月) 10:01:42|
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