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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月23日・実像不明のロシア・エリツィン大統領の命日

2007年の明日4月23日は退任して20年、没後12年が経過しても未だに実像不明になっているロシアのボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン大統領の命日です。
エリツイン大統領が在任した時期のロシアはアメリカに対抗する超大国だったソビエト社会主義共和国連邦がアレヨアレヨと言っている間に消滅して統治機構は崩壊、経済は破綻、軍は機能停止状態で国家の体を為しておらず、外交に於いても「自由主義の一員になったロシアを守るための支援」を要請する物乞いになり果てていました。こうなれば外交の常識として日本は支援と引き換えに北方領土の返還を要求すべきところでしたが、宮沢喜一死に体内閣と肥後・熊本の馬鹿殿が天下人ではどうしようもなく善意と同情による助け合い募金のような甘い甘い対応に終始していたのです。
日本では憐れな姿ばかりが焼きついているエリツィン大統領ですが、その経歴は意外に派手な役どころを演じています。1931年にヨーロッパとアジアの境界線であるウラル山脈の麓の独立農家の息子として生まれました。30歳でソビエト共産党に入党するとブレジネフ派として順調に昇任し、1976年にモスクワ南方のスヴェルドロスク州の党第1書記に就任すると同州内にあるニコライ2世一家殺害現場の屋敷を改装した歴史博物館を西側の歴史研究者やマスコミが取材して「ロシア革命の残虐性を示す史跡」として紹介していることを問題視した党中央の命令で解体しています。このような活躍を評価されて1981年には党中央委員になり、保守派からは同年齢のゴルバチョフさんの対抗馬と目された時期もありましたが、1985年にゴルバチョフさんが書記長に就任すると保守派への押さえとして重用されることになりました。ところが西側との国力の格差を自覚したゴルバチョフ書記長がペレストロイカを提唱するとソビエト共産党内ではペレストロイカの推進を主張する若手と共産主義体制の整備によって国家は再生できるとする保守派の対立が激化し、かつてであれば権力者によって粛清が行われるような事態に陥りました。しかし、西側式の情報公開もペレストロイカの眼目の1つだったこともあり、それを鎮静化する手段がないままゴルバチョフ体制は前のめりになって突き進んでいったのです。
そんな1985年にエリツィンさんは首都・モスクワ市の党第1書記に就任するとベレストロイカの推進を主張する改革派の頭目となり、西側のマスコミにはペレストロイカの遅滞を批判する急進的反体制派として登場するようになりました。
その後、ペレストロイカに不満を抱く保守派の批判の的になり、1987年にはモスクワ市の党第1書記を解任されたものの1989年の人民代議員選挙にモスクワ選挙区から出馬して当選、1991年6月にはロシア共和国の大統領選挙でも当選し、8月に保守派が起こしたクーデターでは鎮圧を陣頭指揮して名を売り、国民の絶大な支持を受けてソ連崩壊後に成立したロシア連邦の国家元首に横滑りしたのです。
これだけの実績の持ち主が虚栄心を捨てて物乞い同然の外交を行ったのは「自分がソ連を崩壊させた」と言う自覚があったからでしょう。そこが厚顔無恥な日本の旧・民主党の政治屋どもとは逆に尊敬に値します。
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  1. 2019/04/22(月) 11:57:17|
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