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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第78回月刊「宗教」講座・日本におけるキリシタン弾圧の必然性

日本では天正15(1587)年に豊臣秀吉さんがバテレンを追放し、文禄5=慶長元(1596)年に布教を継続していた宣教師と改教しなかった日本人信者を処刑して以来、徳川幕府も慶長17(1612)年と翌年に禁教してきたキリスト教が明治時代の文明開化で日本が西洋化に盲進していた中で解禁されましたが、薩長土肥が政権を奪取した直後にも桂小五郎くんによってキリシタン弾圧が発令され、「浦上4番崩れ」が発生したこともあり、戦前は禁教政策についてキリスト教系の学者や教会関係者などが研究する程度で表だって批判されることはありませんでした。ところが敗戦後、占領軍は大日本帝国をナチス・ドイツと同様の凶悪な国家と断罪するため日本史を勝手な視点で再評価して国民に流布したのですが、その格好の材料になったのが数百年にわたって行われてきたキリシタン弾圧だったのです。そして現在も学校では占領軍が変質された歴史教育が継続されており、NHKも検証を怠ったままその歴史観に基づく番組制作を行っているため史実化され、長崎県はキリシタン弾圧の悲劇の舞台であるかのように喧伝し、海外からの観光客を誘致するために世界遺産登録を実現して虚偽の歴史を大々的に広めようとしています。野僧が長崎の僧侶や佛教徒の高齢者たちに聞いた話によると「長崎では住民だけでなく代官所の役人も隠れキリシタンの家族は判っており、年貢を納め、村の掟に従うことを条件に黙認していた」のだそうです。逆に五島列島の隠れキリシタンの末裔に話を聞いても「うっかり十字を切ったりすると近所の人たちから注意され、葬式に来た村の坊さんは形式的に読経をすますと『邪魔者は退散するぞ』と言って席を立ち、それに合わせて集落の人たちも隠れキリシタンを残して帰るのでキリシタン式の葬儀をやり直していた」と言います。踏み絵も多くの佛教徒たちが草履履きで泥道を歩いてきた足で踏むため絵が汚れ、それを何年も使い回すため(踏み絵はキリスト教の宗教画なので勝手に書き直すことはできなかった)何が書いてあるか判らない状態になっていることが多く、意外に抵抗なく踏むことができたと言う話も聞いています。実際、江戸期では禁教令の空文化に苛立った3代将軍・家光さんが摘発と処罰の徹底を命じた元和年間以降は日本人の殉教者を出しておらず、遠藤周作先生の名作「沈黙」も元和6(1622)年に発生した宣教師の密入国事件を題材にしているに過ぎません。だから浦上四番崩れでは十数ヶ村の住人の全員が隠れキリシタンだった計算になる3394人もの摘発者が出たのです。ところが占領下で歪曲され、学校で教えられ、NHKが流布し続けている歴史観では江戸時代には一貫して過酷な宗教弾圧が行われていたことになっています。確かに島津藩では浄土真宗が禁教されていながら廃藩置県によって藩の掟が取り消されると領民だけでなく藩士の中にも隠れ門徒が多数を占めていたことが判明し、廃佛毀釋による佛教寺院の破壊の後、雨後の筍のように浄土真宗の寺院が作られましたから厳格な詮議と過酷な弾圧がなかったとは断定はできません。何にしても織田信長さんは気に入っていたイエズス会を中心とするカソリックを豊臣秀吉さんが一転して禁教・弾圧するに至ったのには必然性がありました。
秀吉さんは豊後の守護大名・大友義鎮(よししげ)さんの救援要請を受けて九州の南3分の2を制覇していた島津氏の討伐に乗り出しましたが、ここで目の当たりにしたのは朝廷から関白・太政大臣に任じられ、豊臣姓を受けて名実ともに天下人になっている自分を差し置いて九州の諸大名が勝手にヨーロッパ諸国と貿易だけでなく外交を行っている事実と京都近辺では「布教だけが来日の目的」と述べている宣教師たちが領主と結びついて支配力を誇示している姿であり、さらに宣教師が海外に同行させた日本人を現地で奴隷として売っているとの証言を耳にしてカソリック教団の本性を見抜いたことだと言われています。ところが秀吉さんを九州に引き入れ、カソリック弾圧の切っ掛けを作ったのはキリシタン大名・大友義鎮(よししげ)=宗麟=ドン・フランシスコさんでした。室町時代の1543年に種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝来したのに続き、インドで日本人に会って洗礼を受けさせていたイエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルさんが一五四九年に来日して西国の諸大名や足利将軍、天皇に対面して以来、続々と宣教師が送り込まれ、特に地理的に窓口になっていた九州では多くの信者を獲得していました。その代表格の大内義鎮さんは宗麟と言う法号を持っているくらいで元来は信仰の篤い佛教徒だったのです。ところがその出家の動機はどこの大名家でもある正妻が産んだ嫡男よりも愛妾の異母弟を偏愛する父親が義鎮さんを廃嫡=殺害しようとしたお家騒動を経験し、逆に家臣によって父の方が暗殺された上、中国地方と北部九州の覇者;大内氏が重臣・陶氏の謀反によって倒れたことに乗じて弟を跡取りに送り込んだものの陶氏を討って覇権を受け継ぐ野望を抱いた毛利氏によって自害に追い込まれ、北部九州も奪われたことによる失意だとされています。
ところが出家後も毛利氏からの圧迫は強まり、九州南部の島津氏、西部の竜造寺氏からの攻勢を受けるようになった頃、現れたのがフランシスコ・ザビエルさん以下のカソリックの宣教師たちでした。
大友義鎮さんの出家は元々が八方ふさがりの中の気分転換でしたから、目新しい外国物の宗教であれば効果抜群のはずです。そんな訳で領内での布教を許すと宣教師たちは西洋の医術や天文学などの自然科学の知識も有しており、中でもザビエルさんが所属するイエズス会は創始者のイグナチオ・デ・ロヨラ自身が騎士出身であることもあって軍事的知識は武将の顧問を務められるほどでしたから、たちまち夢中になっていったようです。実際、大友領=豊後では西洋文化が広まり、西洋医術による治療を求めて他国からも人々が集まるようになったためこれまでになく繁栄し始めたのですが。戦争においては西洋式戦術も戦国時代を生き抜いてきた群雄には通用せず、一時期は肥後と日向以北を手中に収めていた大友氏も豊前・豊後に押し込まれることになりました。そんな時、キリスト教では「信仰が足りないからカミの加護が届かない」と言う詭弁を弄すので、とうとう佛教の僧侶でありながら洗礼を受け、敬愛するザビエルの名前を受け継ぎドン・フランシスコと名乗るようになったのです。ところがこの軽挙はカミの加護ではなく日本の佛神の怒りを招く結果になりました。ドン・フランシスコさんは宣教師の言うことに盲従し、豊前・豊後をカソリック教国にしようと躍起になり、佛教の僧侶や神社の神官を国外に追放するだけでなく、寺院や神社を次々と破壊し始めたのです。ところがドン・フランシスコさんの正室は武門の守護神として崇敬を集める宇佐八幡宮の宮司の娘であり、当時としては珍しい恐妻家でもあったため神社には迂闊に手が出せず、その不徹底さを誤魔化すように寺院への弾圧に力を入れました。宣教師にとっても各地で行われた宗教論争で手痛く論破されることもある佛教を根絶することは至上命題であり、強力に扇動したためドン・フランシスコさんにとってはキリシタンとしての踏み絵となり、執拗に佛教の弾圧を進めたのです。大分県中津市の耶馬渓には羅漢寺と言う古刹があるのですが、ドン・フランシスコさんはここも破壊しようと軍勢を送りました。しかし、羅漢寺への唯一の経路(周囲は断崖絶壁になっている)には江戸時代になって「青の洞門」が掘削されることになる難所があって容易に辿りつくことができず断念せざるを得ませんでした。これを切っ掛けに家臣や領民の間でドン・フランシスコさんが強行する佛教寺院の破壊に対する反発が表面化し、島津との戦いへの参陣を拒否する者が続出し、ついには宣教師を追放する要求が抑え切れなくなったのです。この不満を影で扇動していたのはキリシタンになった夫に見切りをつけた正室だったと言われています。やはり打ち続く戦乱の中で佛教や神道に出陣に当たっての加護や死者の供養を求めていた家臣・領民の真摯な信仰を外国人宣教師に言われるままに踏み躙ったドン・フランシスコさんの軽挙が日本では受け容れられないことを示しているようです。大分県在住の友人によると現在もキリスト教を嫌悪する気分が残っているそうで、「クリスマスもあまり盛り上がらない」と真偽不明の話を聞かせてくれました。
もう1人、キリシタン大名の代表格としては高山右近さんがいます。ただし、高山さんは摂津国の現在の大阪府北部の土豪から織田信長公に仕えて篤い信任を受けたものの本能寺の変に続く山崎の合戦では先鋒を務めながらも賤ガ岳の合戦では内通を疑われたため出世の速度が鈍り、播磨国明石に6万石を与えられたのも束の間、バテレン追放令を受けて「地位や所領と全財産を捨てて信仰を守る」と宣言して同じくキリシタンの小西行長さんの庇護を受けた後、加賀前田家の客将になっています。したがって前田家でも1万5千石の扶持を与えられていますが「大名」とは判じ難い面があります(大名の条件は禄高1万石以上とは言え)。高山さんは通称の右近の他に色々な名前を持ち、正式な諱だけでも元服時に父・友照さんから与えられた友祥(ともなが)、信長公から一字をもらって長房、さらに重友と名乗っている記録もあります。そして千宗易=利休さんの高弟として茶道界では南坊等伯と号しており、これに洗礼名で「義の人」を意味するジュストが加わります。それでもジュストさんは佛教で出家した在俗坊主でありながら洗礼を受けたドン・フランシスコさんとは違い、父はダリヨ、母はマリアと言う洗礼名を持ち本人も十歳で洗礼を受けた血統書つきのキリシタンでした。ジュストさんについては前述のようにクリスチャン=キリシタンと言うだけで手放しに賞賛する風潮に加え、頑ななほど高潔な人間性と全てを捨てて信仰を貫いた生き様に憧憬を覚える者によって殊更に美化され過ぎている点も多々あまります。特に2014四年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では二枚目俳優の生田斗真さんが演じるジュストさんが聖書の教義と武将としての任務の狭間で苦悩する姿を熱演したため、今風の反戦平和主義者であったかのように思われてしまいましたが、実際は多くの武勲を重ねて信長公や秀吉さんに認められたのですからそれは虚構に近い演出です。例えば領民に対してもキリスト教の理想である「amor(この時代は『愛』を意味するこのスペイン語を『御大切=大切に思う』と訳していた)」を実践していたと言われ、領民の葬儀では非人に代わって棺桶を担いだとする美談も伝わっています。しかし、それはおそらくキリシタンに改宗した領民であって聖書が説く「カミの前では平等」と言う教えに忠実だっただけのことでしょう。実際、ジュストさんもドン・フランシスコさんほど大規模ではないにしても領内では宣教師の指導に従って僧侶や神官を退去させており、無人になった寺院や神社から本尊や佛具、神具などを撤去・破棄した上で解体し、新たに建設した教会に流用しています。このため所領であった高槻地区には京都に隣接する近畿地方でありながら安土桃山時代よりも古い寺社佛閣は現存しません。そして信長公の下では最大の武功であった石山本願寺攻めでは「邪教を滅ぼす」と言う強い使命感を発揮して他の武将たちが念佛を唱えながら突き進んでくる門徒たちの姿に惧れを為す中で平然と殺戮を繰り広げ、絶大な信任を獲得したのです。それでも前述の「軍師官兵衛」では生田さんに門徒たちに同情しているような台詞を吐かしています。これは日本のカソリック教団がこの頃から始めたジュストさんを列福する運動を支援するための演出だったのかも知れません。なお、ジュトさんは2017年に教皇・フランシスによって列福されています。公式記録には名前が出ていませんが、宣教師が母国に送った書簡で絶賛している信長公による比叡山焼き討ちや高野山攻撃(開戦する前に降伏した)、さらに秀吉さんの紀州侵攻でも同様に活躍したのは間違いなく、アメリカ大陸の中・南部に侵攻したスペインやポルトガルが犯した悪逆非道を日本で代行したのでしょう。そんなジュストさんは日本には死に場所がなく、秀吉さんのバテレン追放に続き、徳川幕府からも禁教が発令されたことに失望して家族を伴い現在のフィリピンに宗教亡命しました。すると宣教師が日本から送った報告文書で絶賛されていたジュストさんをスペインのフィリピン総督は大歓迎したものの63歳の高齢と不慣れな船旅、そして冬の日本から辿りついた南洋の気候風土から到着後わずか40日の慶長20(1615)年1月6日に異郷の地で果てたのです。当然、総督は最大限の儀礼を尽くし、現在のマニラ市に建築していた聖堂で十日間にわたって葬儀を行い、カソリックの作法に則って別の聖堂に葬られましたが、20年後に別の聖堂に移され、1767年にフィリピンからイエズス会が撤退したことで行方不明になって現在も遺骨は発見されていません。
家康公は浄土宗を篤く信仰していましたから宗教政策に於いても寛容で、弾圧よりもむしろ取り込んで利用する政治手法を常用しました(全国を旅する虚無僧や修験者を隠密に利用した)。一方、信長公や秀吉さんが目障りになった佛教教団・大寺院の武力による根絶や執拗な弾圧を図った背景にはドン・フランシスコさんと同様に佛教を敵視する宣教師の口車があったのかも知れません。現在は文部科学省とNHKが占領軍からのそれを踏襲しています。国家鎮護・南無毘盧遮那佛
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  1. 2019/05/01(水) 11:42:46|
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