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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月6日・戦後の日本画の大家・東山塊夷の命日

1999年の5月6日はおそらく戦後に活躍した日本画家の最高峰であろう東山魁夷さんの命日です。90歳の長命だったことは日本の美術界にとって天恵でした。
野僧は中学生1年生の頃、東山さんが1950年に発表した「道」を見て非常に感激して以来、年に1回開催される写生大会では同じ構図の絵を描くようになりました。惜しむらくは「写生」と銘打っているため実在の風景を描かざるを得ず、まっすぐ伸びた道は同じでも両側には畑と住宅を入れたため美術の教師には「何を描きたかったのか」が判らなかったようです。本当は稚拙な盗作・模倣ですが。
野僧は興味を持ったことは徹底的に探究しないといられない悪癖でこの作品について調べ続け、描いたのは青森県八戸市の種差海岸であり、現在の県道1号線であることを突き止めて、航空自衛隊の総合演習で三沢基地に行った時、電車を乗り継いで現場を訪ねて本物の風景を眺めましたが道路は舗装されていて感激はできませんでした。後年、国立近代美術館で本物を見た時も舗装道路と重なって変に白けてしまいました。
東山さんは明治41(1908)年に横浜市海岸通りで船具商の次男として生まれました。3歳の時に父が神戸で仕事を始めたため家族で転居しましたが、生来病弱だったため油絵を描いて過ごすことが多く、旧制中学に進んだ頃から洋画家を志すようになりましたが兄亡き後の跡取りだったので父親が反対し、粘り強く説得したところ「日本画なら許す」と妙な妥協をしたため東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に進学したのです。
在学中に帝展に出品した「山国の秋」と翌年の「夏日」が入選したことで卒業してから2年間の研究科を修了後にはドイツのベルリン大学に留学することになりました。
帰国後は日本画家の娘と結婚したものの母親が脳溢血で倒れ、弟が結核で入院、父は多額の借財を残して喘息で病没するなどの不幸が続き、おまけに赤紙=招集令状が届いて熊本で海外への死出の旅立ちを待ちながら敗戦を迎えたのです。無事に復員すると妻、母、弟が疎開していた現在の山梨県南アルプス市に身を寄せますが、母と弟が相次いで亡くなると千葉県市川市の転居し、それから50年以上この地で創作を続けました。
そんな昭和22(1947)年の日展に出品した気分転換のため千葉県の鹿野山に登った時に眺めた風景を描いた「残照」が特選になり、その存在を広く知られることになりました。「残照」は輪郭線を用いずひだのように折り重なる山の稜線が残照の光によって明るさの違いを際立たせている描写は遠望の高い峰の輝きを仰ぎ見るような気分になります。
その後も優れた風絵画を数多く手掛けますが、北欧を旅して描いた風景は青色が映え、京都では桜の花の色が浮かびあがって極めて幻想的です。中でも奈良の唐招提寺の襖の障壁画は5度の渡航失敗により視力を失った鑑真和上に見ることができなかった日本の風景を捧げ、故郷である揚州、桂林、黄山を描くためのもので戦後日本画の極致と称えられています。昭和44(1969)年に61歳の異例の若さ文化勲章を受章しました。
遺作は「夕星」で夕暮れ時の月に照らされた深い森の中の湖畔に並んで立つ4本の木が描かれていますが、これは夢に見た心象風景で木は亡くなった両親と兄弟なのだそうです。
道・東山塊夷東山魁夷作「道」=現在は青森県八戸市の種差海岸の県道1号線
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  1. 2019/05/06(月) 11:45:21|
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