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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月11日・だから鹿児島陸軍閥が完成しなかった・川上操六大将の命日

明治32(1899)年の明日5月11日はこの人物が長生きしていれば帝国陸軍も山口県出身者に私物化されることなく、少なくとも帝国海軍のように軍人としての本務を全うする組織になっていたと惜しまれてならない鹿児島県の逸材・川上操六大将の命日です。
川上大将は嘉永元(1848)年に島津藩士の3男として生まれ、幕末の動乱の中で育ち、20歳で迎えた戊辰戦争には士官待遇で参戦しています。明治4(1871)年に帝国陸軍に入営すると順調に昇任して行きますが、明治10(1877)年に鹿児島出身の陸軍軍人の頂点とも言うべき西郷南洲翁が西南戦争を起こしたため大山巌元帥と同じく鎮圧軍に加わり、戦功を揚げました。本来であれば西郷翁が賊徒に堕ちてしまった以上、帝国陸軍における鹿児島出身者の勢力は消滅するはずなのですが、大山元帥以下の身内の手によって始末をつけたことで辛うじて命脈を保ったのです。
明治17(1884)年には大山元帥に随行してヨーロッパ各国の軍制を視察し、明治20(1887)年には正式にドイツへ留学しています。帰国後は帝国陸軍の近代化を推進しますが、その成果は日清戦争で遺憾なく発揮されました。こうして大将に昇任し、陸軍参謀校長に就任して将来を期待されていた中での急逝でした。50歳でした。
川上大将没後、5年後に生起した日露戦争の地上戦で活躍した帝国陸軍の鹿児島県出身の将帥たちは(肩書は日露戦争当時)大山満州軍総司令官が天保13(1842)年、黒木為禎第1軍司令官が天保15(1844)年、野津道貫第4軍司令官が天保12(1841)年生まれです。一方、山口県出身者は山県有朋参謀総長が天保9(1838)年、桂太郎総理大臣が弘化4(1847)年、寺内正毅陸軍大臣が嘉永5(1852)年、児玉源太郎満州軍参謀総長が同じ嘉永5(1852)年、問題外の乃木希典第3軍司令官は嘉永2(1849)年なので世代的に川上大将が大山元帥の後継者にならなければならなかったのです。おまけにその次を担うはずの安政元年(1854)年生まれの伊地知幸介第3軍参謀長は極めて有能だったのにも関わらず乃木愚将に共倒れさせられてしまいましたから、西南戦争の敗戦処理で宮崎県に割譲された都城市出身で安政3(1856)年生まれの上原勇作元帥を後継者に据えたものの年齢的に派閥の長としては迫力不足で、帝国陸軍は山口県出身者の手に落ちてしまいました。
山口県陸軍閥は吉田松陰の尊皇攘夷の狂気に染まって現実よりも精神性ばかりを誇示し、軍人としての能力よりも派閥の論理を優先し(鹿児島県出身者は人材発掘を重視するためこの点が弱い)、権謀術で権力を奪うことに終始した結果それが体質化してしまい、昭和に入って高まった国家主義を妄信する過激派将校による一大不祥事である2.26事件を寺内正毅元帥の息子の寺内寿一陸軍大臣が悪用して現役大将・大臣制(それまでは予備役でも良かった)を押しつけたことで帝国陸軍は気に入らない内閣には陸軍大臣を推薦せずに瓦解させると言う卑劣な手段を手に入れました。結局、明治の政変以降、要所要所に登場する山口県出身の軍人出身の政治屋たちと外交官などの失策によって77年でこの国は滅亡したのです。その意味では川上大将の早逝は本当に残念です。
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  1. 2019/05/10(金) 12:03:03|
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