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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月20日・帝国海軍の撃墜王・岩本徹三少尉の命日

昭和30(1955)年の明日5月20日は帝国海軍の撃墜王・岩本徹三少尉(敗戦後に中尉に特別昇任している)の命日です。
現代人は軍事オタク・戦史マニアであっても帝国海軍の撃墜王と言えば「大空のサムライ」で自ら売り出した坂井三郎少尉(同前)だと思いがちですが、実際は負傷して戦線離脱していたため撃墜数は自己申告でも64機であり、自己申告で202機、僚機の証言で裏付けられた公式記録でも80機以上とされている岩本徹三少尉には遠く及びません。一方、帝国陸軍の撃墜王は公式記録76機、控え目な性格のため自己申告が30機の上坊良太郎大尉(敗戦前の正規の昇任)です。
岩本少尉は大正5(1916)年に樺太の国境近くで警察官の3男1女の3男として生まれました。13歳の時に父親が退役して故郷の島根県益田市に戻ったためこちらで成長しました。地元の農業学校を卒業する際、父親から「3男のお前も大学に行かせるから卒業後は家を継いでくれ」と頼まれたものの黙って海軍予科練習生を受験し、昭和9(1934)年に合格して入営すると航空科を志望して霞ヶ浦航空隊に入隊しました。
霞ヶ浦を卒業して昭和12(1937)年8月に支那事変が勃発して南京に赴任すると昭和13(1938)年2月25日の南昌空襲に直援3番機として初陣を飾り、撃墜×4、未確認×1と言う戦果を揚げました。その後は大陸戦線で帝国陸海軍最多の撃墜×14と言う活躍の後、空母乗り組みになって瑞鶴で真珠湾作戦に参加し、インド洋作戦では哨戒飛行艇を撃墜しています。続く史上初の空母決戦となった珊瑚海海戦では空母艦隊の護衛機としてアメリカ海軍の艦載爆撃機や雷撃機を撃退しましたが司令官・井上成美中将の優柔不断な指揮のため戦果は上がらず、次のミッドウェイ作戦の時には瑞鶴は同時進行で実施されたアリューシャン列島攻略作戦の護衛の任務だったため壮絶な空母決戦に臨むことはありませんでした。昭和18(1943)年11月にはラバウルに配属され、いよいよ撃墜数の量産が始まりました。坂井兵曹長は自己中心的性格で単機での決闘を追い求めたため仲間から嫌われていましたが、岩本兵曹長の飛行方法と戦術は編隊で編隊に対戦するために敵機の早期発見を重視し(「プロペラの太陽光の反射を探す」と言っていた)、発見後は編隊を有利な位置に誘導して損害を少なく戦果を大きくすることに努めました。
勿論、単機での技能は無敵であり、中でも先に僚機に攻撃させて編隊を乱した敵機を逃さず撃墜する戦法は効果絶大でしたが、惜しむらくは達人の域にあった岩本兵曹長だから為せる神技だったため同僚に伝授することはできなかったようです。
そうして敗戦まで撃墜数を積み重ねていきましたが、フィリピンに配属されていた時に初めて実施された神風(しんぷう)特別攻撃隊については「生きて戦うのが戦闘機乗りの使命」と拒否しています。また救命胴衣の背中には階級と氏名ではなく「零戦虎鉄(虎鉄は近藤勇の愛刀)」「天下の浪人」などと書いていたそうです。
敗戦後は「ラバウルの英雄」として紹介されたニュース映画を見ていた益田市の女性と見合い結婚しましたが地上での生活には適応できず、苦労の末にようやく落ち着いた生活を営み始めた頃、盲腸炎を腸炎と誤診されたことで手遅れになり7歳と5歳の子を残して亡くなりました。38歳でした。
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  1. 2019/05/19(日) 13:22:44|
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コメント

坂井三郎の「大空のサムライ」を久しぶりに読み返したが・・・

作り話としか思えないエピソードがいくつかありますよね。 
  1. 2019/05/19(日) 20:34:20 |
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