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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月23日・「天皇機関説」美濃部達吉博士の命日

昭和23(1948)年の5月23日は大正元年に発表した「天皇機関説」で軍国主義の狂気が蔓延した25年後に徹底的な弾圧を受けた美濃部達吉博士の命日です。
美濃部博士と言うと軍部の弾圧を受けたことと長男の美濃部亮吉都知事が東京都を大衆迎合と役人天国に堕落させたことで反体制の学者と思われがちですが全く違います。
美濃部博士は明治6(1873)年に現在の兵庫県高砂市の漢方医の次男として生まれました。明治以降も各地方は優秀な人材を東京に送って同様に全国から集まって来る俊英たちと切磋琢磨させていましたが、美濃部さんも東京に出て第1高等学校に進み、明治27(1894)年には東京帝国大学法科大学で政治学を専攻しました。明治30(1897)年に大学を修了すると高等文官試験の行政官に合格したため内務省に入省し、明治32(1989)年からドイツ、フランス、イギリスに留学します。
明治33(1900)年に帰国すると東京高等商業学校(現在の一橋大学)の教壇に立ち、続いて東京帝国大学の比較法制史の助教授、2年後には教授になって日本の法学を発展させた多くの人材を育成しました。こうして法学者としての地位を確立していた大正元(1912)年に発表した「憲法講話」でドイツの公法学者のゲオルク・イェリネック博士が提唱した「君主は国家における1つの、かつ最高の機関である」とする学説を大日本帝国に当てはめて解釈した統治機構論としての「天皇機関説」を発表しました。これを受けて天皇を唯一絶対の国家そのものの存在とする「天皇主権説」を提唱していた東京帝国大学法科大学の学長と論戦になり、それを通じて皇室や政治家、官僚たちの間でも主権説ではなく美濃部博士の統治機構の一部とする認識が定着して当時10歳代前半だった昭和の陛下も成長の過程で学習されたようです。
ところが昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議に強硬に反対する帝国海軍の艦隊派が「軍備の決定も天皇の統帥権に属し、政府が関与することは干犯に当たる」と言う詭弁を弄すと海軍と同時進行に軍縮を強要された帝国陸軍や軍備拡張による大陸進出を主張する右翼がこれに同調して大正デモクラシーを打ち消す不穏な空気が充満していく中、美濃部博士は「兵力量は統帥権の範囲外であり、予算を執行する政府に決定権がある」と理路整然と条約を推進する側を擁護したため軍部や右翼の憎悪の的になってしまいました。
昭和9(1934)年になると前年に政権を握ったアドルフ・ヒトラー首相がユダヤ人であったイェリネック博士の学説を否定したため、ナチス・ドイツに傾倒する帝国陸軍も盲従し、これを基礎とする美濃部博士の「天皇機関説」を攻撃し始めたのです。この時、昭和の陛下は美濃部博士の学説を正論と認め、学識を絶賛しましたが「尊皇攘夷」は表看板に過ぎない軍国主義者にとってこそ天皇は機関であり、翌年には全ての著書が発禁処分になり、貴族議員を辞職した上、不敬罪の疑いで特別高等警察の取り調べを受けました。
敗戦後は占領軍から新憲法を起草する憲法問題調査会の顧問に任命されましたが、武力紛争関係法の規定に基づき「占領軍には国家の根本規範を改定する権限はない」と新憲法に反対する立場を取り、これが日本国憲法を否定する右派勢力の論拠になっています。
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  1. 2019/05/23(木) 11:44:03|
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