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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月24日・「武運拙い」イギリス軍司令官・ウェーヴェル元帥の命日

1950年の5月24日は日本が第2次世界大戦に参戦した時のインド駐留イギリス軍の司令官だったアーチボルト・パーシヴァル・ウェーヴェル元帥の命日です。
日本人は参戦初頭、抵抗らしい抵抗も見せずに敗退し、シンガポールの降伏交渉で丸刈りの山下奉文中将の恫喝に品良く整髪したアーサー・アーネスト・パーシバル中将が見せた怯えたような表情に「やはり貴族に戦争の指揮はできない」と日本のお公家さんと重ねてしまいましたが、イギリスに限らずヨーロッパの貴族は日本で言えば武将に当たる騎士です。ただし、パーシバル中将は貴族出身ではなくアイルランドの独立暴徒の鎮圧で武勲を上げた根っからの軍人で、不慣れな行政官としての交渉に気後れしていたようです。
一方、ウェーヴェル元帥は1883年にイギリス陸軍の少将の長男として生まれ、当然のように上流階級の子弟が通うカレッジと王立陸軍士官学校に進み、1901年に王立ハイランド歩兵部隊に入隊して早々にイギリスがオランダとアフリカのガーナの領有を争った第2次ボーア戦争に参戦しました。そうして1911年には参謀大学に首席で入学すると参謀として軍暦を重ねることになりました。1914年から18年の第1次世界大戦にも出陣し、片目を失う重傷を負っています。こうした前線での負傷は軍人としては勲章以上の栄誉となり、その後は旅団長、師団長として勤務した後、1935年から1937年にはパレスチナで発生したアラブ人の暴動の鎮圧に当たりました。そして1939年7月末に保護国・エジプトのカイロに赴任して中東とアフリカ北部の地中海沿岸の支配地域を担当することになりましたが、1ヶ月後の9月1日に第2次世界大戦が開戦し、リビアを植民地とするイタリアと交戦状態に入ったのです。
ウェーヴェル将軍はイタリアの出方を注視していましたが、バトル・オブ・ブリテンによる国民の動揺を抑えるため戦勝を欲していたエドウィン・チャーチル首相が作戦に介入してきて結果的に現地部隊の戦略構想を混乱させました。イギリス軍がリビアを制圧するとナチス・ドイツが侵攻して名将中の名将・エドヴィン・ロンメル元帥の戦車軍団と対戦することになってしまいました。
結局、ウェーヴェル将軍は散々に敗北し、チャーチル首相によって解任されてインドに左遷されるとイギリスが劣勢に堕ちっていることで独立運動が激化しており、これを鎮めることに手一杯で何もできぬまま日本軍にも敗北したのですから「武運拙い」としか言いようがありません。実際、イギリス軍は北アフリカ戦線のナチス・ドイツ軍や東南アジアにおける日本軍との戦闘は後任のクルード・オーキンレック将軍の指揮によって劣勢を挽回していますから軍人としてはあまり有能ではなかったようです。
インドでは1943年1月に元帥に昇任し、7月に貴族に列せられ、続いて10月には総督に就任して軍人としてよりも行政官として働くことになりました。ここではインドの独立とヒンドゥー教のインド、イスラム教のパキスタンへの分離に道筋をつけたことで歴史に名前を刻みましたがイギリスにとっては敗戦処理に近く、本人も死に際して貴族・軍人の墓所ではなく母校のカレッジの構内に埋葬されることを遺言しました。
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  1. 2019/05/24(金) 12:36:33|
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