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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1566

「あれッ、電源を入れ忘れていた」前潟3佐と大岩3佐の記者会見が終わり、首席法務官が事務室に2度目のコーヒーを持ってこさせた時、私は迷彩服の胸ポケットの携帯電話の電源を入れ忘れていることに気がついた。切ったのは公判が始まる直前だ。法廷に携帯電話を持ち込むことは認められているが電源を切らなければならない。かつて公判中に弁護人の携帯電話が鳴り始め、スイッチ操作で電源を切ろうとしても焦って上手くいかず、審理が中断して裁判官が立腹したことがあった。取り敢えず電源を入れると着信履歴が連なっていた。
「梢と淳之介からだな」公判開始直後に梢から第1報が入り、それから30分に1回の頻度で淳之介が掛けてきている。これはあかりの出産に関する連絡に違いない。そこで首席法務官室を出て廊下の隅に行って電話してみた。時間の経過から言えば生まれていても不思議はないが、初産の場合は二日掛かりになることも珍しくない。特に巨大児だった淳之介は明け方に陣痛が始まって産まれたのは翌日の朝だった。
「もしもし、淳之介か」「お父さん、まだ産まれないよ。それでも陣痛の間隔が短くなってきてるからソロソロみたいだ」電話に出た淳之介は何も訊く前に現状を報告した。やはり淳之介もワクワクし通しで待ちくたびれているようだ。
「すまんなァ、法廷で電源を切ったまま入れ忘れていたんだ」「うん、昼のニュースでお父さんを見たよ。迷彩服で出たんだね」法廷の映像は判決終了後に控室のテレビで国営放送のニュースを見たが、裁判官を中心にしていたのでそれ程目立ったようには感じなかった。
「裁判は勝ったんだね。おめでとう」「ありがとう。だけど判決を勝ち負けで考えるのは好きじゃあないな」船舶の事故に関する裁判で船乗りからの祝辞は有り難いが、私個人としては勝訴・敗訴と言う表現は好きではない。坊主でもある私は人間の行為の善因も悪果を生むことがあり、判決は白黒の色分けではなく灰色の濃淡を判定するものだと考えている。
「若し生まれてくるのが男だったらお父さんの勝ちを記念して恵勝(けいしょう)にしようかなって思ってたんだ」子供の名前の相談は何度か電話で受けている。安里家の通り名は「恵」なので下に着ける漢字1文字の選択だったが、両親は「亡くなった兄の恵昇をつけてもらいたい」と言っていることも聞いている。「恵勝」なら読みは希望に添えるはずだ。
「名前は苗字とワンセットの語感と漢字のバランスも大事だぞ。恵勝では安里の画数が少ない分、重くなり過ぎないか」私は頭の中で「安里恵勝」と言う文字を書きながら見解を述べた。
「そうかァ、漢字にしてみないといけないんだよね」淳之介も頭の中に紙を広げて筆を取ったのかも知れない。それにしても出産当日になっても名前が決まっていないのは余程色々なことを考えているらしい。尤も私は淳之介が生まれた時に読んでいた本の作者で決めたのだから悪くは言えない。妹は本を読み終えて栞(しおり)を眺めている時に生まれたから志織なのだ。
「強いて言えば判決で目的を達したから笑顔だな。だから恵に笑うで『恵笑』だ」頭の中で文字にしてみたが末広がりにはなっている。音も「けいしょう」になるので祖父母も納得するのではないか。ただし、単なる思いつきなので自信作ではない。
「これもお前の考える候補の1つにしてくれ」その時、統合幕僚監部のエレベータから降りて廊下を歩いて行く一団が見えた。どうやら前潟3佐と大岩3佐が牧野弁護士と滝沢弁護士や海上幕僚監部の関係者と一緒に首席法務官室に向かうようだ。
「すまんが仕事になった。電源は切らないが会議中に着信音は困るからメールにしてくれ」そう言って電話を切ろうとした時、淳之介の向こうからあかりの悲鳴が聞こえた。
「痛い、今度は違うわ」「淳之介、ナース・コールを押して」あかりに続いて祖母の指示が聞こえた。いよいよ分娩室に入るようだ。これでは会議どころではない。解脱した坊主としては諸事から超然としていなければならないが、現世に踏み留まったまま佛を直視して来迎を待つ浄土門の教義から言えば自然に歓喜し、心配すれば良いのだろう。
「遅くなりました」「今、揃ったところだ」首席法務官室に戻ると夫人たちが事務室のWACにうながされて退室するところだった。首席法務官室の応接セット一杯に8人が席についた。
「おそらく検察は高裁でも敗訴することは判っていても控訴するでしょう」「控訴を断念すれば今回の判決で指弾された恣意的な捏造を認めることになりますから」両弁護士は海上幕僚監部でも同様の見解を述べてきたらしく呼吸を合わせて立て板に水で披歴した。
「海幕としては内局とも協議して控訴期限である5月25日付で2人を復職させる方針です」「災害派遣に参加できると良いですがね」1等海佐の説明を受けた私の独り言に前潟3佐と大岩3佐は向かいの席で顔を見合わせた。2人は拘置所内でも大震災の被害と災害派遣の記事は見ていたはずだ。そこに参加できることは無罪判決を実感する無上の喜びになるだろう。
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  1. 2019/05/28(火) 12:38:05|
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