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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1571

梢が見舞いに来たのは面会時間が終わってからだった。最終便の乗降客が一段落して本店に売り上げを収め、業務報告してからなのでそれは仕方ない。前もってナース・センターに断っていたため問題なく病室には来られた。
「あかり、おめでとう。有り難う。頑張ったね」病室に入ってきた梢は授乳しているあかりに祝福と祖母になれた感謝、そして慰労の言葉を贈った。
「お母さん・・・」梢はあかりの目元に涙が浮かんだのを見て指で拭い、提げている紙袋からバナナの房を差し出した。病室には甘い匂いが漂ってきた。あかりには見えない花の微妙な香りよりも鼻と舌で味わえるバナナの方が嬉しいのは間違いない。花も鉢植えなら咲いている間は匂いが続くのだが、病室に根づくことにつながるため見舞い品としては禁忌になっている。
「貴方、バナナを1本食べたいな」あかりは鼻を動かしながら淳之介に声を掛けた。授乳期は食べた物はそのまま母乳になって子供の口に入るため腹が空いて仕方がないようだ。淳之介は房の中でも色づいている1本を取って皮をむくと開けているあかりの口に先を指し込んだ。
「美味しい。これでケイショウのおっぱいも甘くなるね」あかりが子供の名前を口にしたので梢は淳之介の耳元で「名前を決めたの」と訊いてきた。
「はい、父にショウと読む漢字を選んでもらって決めました。これです」淳之介は手帳に書き並べた名前候補の中で「恵祥」を指差した。本当は「恵梢」にも気づいてもらいたかったのだが、その隣りには「恵松」がある。漢字のバランスとしては「安里恵松」も捨て難かったが、淳之介には自分を産んだ女への嫌悪感の方が強かった。勿論、清明節の午後には玉城家の墓にも参ったのだが、自分を育ててくれた祖父母と台湾で執行猶予中の女とは分けて考えている。
「安里恵祥かァ。字のバランスも絶妙だね。流石はニンジンさんだわ」すると梢は名前そのものよりも変なところに感心した。やはり今も変わらぬ愛情を保っている永遠の想い人が何よりも大切なようだ。梢は手帳を返すとあかりの胸元の恵祥の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃんにそっくり。これならケイショウしかないわね」淳之介も佛間の梁に掛けてある遺影で伯父の顔は知っているが梢よりも祖母に似ており、今風に言えばイケメンだ。生まれて半日でも恵祥の顔は目鼻立ちがシッカリしてきており、本当に似ていることが判る。
「恵祥、私がお祖母ちゃん、お祖父ちゃんはモリヤニンジンさんだよ。お祖父ちゃんみたいな素敵な人になるのよ」どうやらこれが言いたかったらしい。しかし、恵祥は腹が一杯になったのかウトウトしている。あかりは微妙な呼吸の変化でそれを察して恵祥を淳之介に渡した。
淳之介はベビー・ベッドの底に敷いたタオルにうつ伏せに寝かせると軽く背中を撫でてゲップをさせた。わずか半日の実務経験で2人の連係動作はかなり上達している。梢は感心と安心、そして少し苦い顔をしながら2人を見比べた。確かに2人とも完全に親の顔になっている。
「お母さん、私は光や色と言うモノを知らないんだけどこの子が生まれた時、目の前に知らないモノを感じたの」恵祥が眠ったのを寝息で確認したあかりは梢に意外な体験を語り始めた。これは淳之介は聞いていない話だ。
「色々な人が私の世界を真っ暗って言うからそうなんだと思っていたけど、今日感じたのは身体が熱くなるような世界で、とっても力が湧いて来たわ」あかりには光や色を認識する感覚がなく、表現する知識を持たない。何よりも「見た」と言う経験さえもない。しかし、健常者の立場から言えばそれは「光」のような気がする。生命を誕生させる瞬間に天からの光明が差したと言うことではないか。そうなると2人の父、梢の元彼であるモリヤの専門分野だ。それは梢も感じたようで1人で何度もうなずいていた。
「夜中に恵祥が泣いても自分で何とかしようとしちゃ駄目だよ。遠慮しないで淳之介を起こしなさい。淳之介も疲れてるだろうけど熟睡しないでね」それから梢は祖母としての注意を与えた。看護師長も同様の注意を与えていたが表現に遠慮があり、良い意味での強制力が弱かった。
「赤ん坊を落としたりしたらそれこそ命取りだ。絶対にやるなよ」「でも、貴方は眠りが深いから私が声を掛けても起きないじゃない」ここで夫婦の反応が分かれた。淳之介は眠りが深くあかりが鼻を摘まんでも目を覚まさないのだ。しかし、手探りで新生児を抱き上げて膝まで運ぶのは本当に危険性が高い。実際、産婦人科に限らず病室の仮眠ベッドの寝心地が悪いのは付添人を熟睡させないためと言われている。
「棒でも置いておいてそれで殴って起こしなさい」「そこまでしなくても起きますよ」流石に淳之介は梢の提案に少し膨れながら首を振った。
「そろそろ消灯になるわね。私は帰るわ。淳之介、明日の航空券を渡しておくね」梢は枕元に置いてある時間を小さな音で知らせる時計の針を見ると椅子から立ち上がった。
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  1. 2019/06/02(日) 12:19:39|
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