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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月24日・切支丹禁教の高札を撤廃した。

1873(明治6)年の明日2月24日に切支丹禁教の高札が撤廃されました。
それが幕末1853(嘉永6)年のペリー来航による開国と1858(安政5)年の米露英仏との修好通商条約締結による外国人居留地の建設を経た戊辰戦争の末、明治新政府が成立して6年後のことですから、日本の切支丹禁教が単なる幕府の宗教政策だけでなく、如何に根深い問題であったかが判ります。
1862年には横浜の山下にカトリック教会(フランス寺)、長崎では1864年に大浦天主堂(本来は秀吉によって殉教させられた26信徒の記念聖堂)が完成して式典が催されましたが、長崎奉行は出席せず、かえって隠れ切支丹が名乗り出るのを警戒しており、実際に名乗り出たイザベリナ杉本百合などの地元民14名を捕縛しています。
そして、明治になるとかえって切支丹弾圧は過酷さを増し(主導者は木戸孝允)、長崎だけでも3384名(実際には浦上村民の全員)が捕縛されて20藩の預かりとなり、粗食を有料で与えられるだけの家畜以下の扱いに多くが死んでいきました。
特に有名なのは津和野藩で、廃佛毀釈の言い出しっ屁でもある津和野藩は神道の教えで改宗できると高を括っていたものの隠れ切支丹の信仰は揺るがず、残酷な拷問で殉教者が続出しました(5名は耐えきれず改宗した)。観光名所の一つである乙女峠の教会はその慰霊のために建立されました。観光客は乙女峠と言う地名と小さな教会でロマンチックな気分を味わいますが、本当は津和野が犯した残虐行為を示す史跡なのです。
これを諸外国が見逃すはずがなく、新政府に厳重抗議し、岩倉具視ら遣欧米使節にも「条約改定の大前提」と高圧的に言い渡してようやく1597年に秀吉が宣教師を追放、宣教師と信徒を迫害して以来、約280年間続いた切支丹禁教が日本人の上に解かれました。
日本人は自分たちのいい加減な信仰と比べ、この迫害に耐えて密かに信仰を守った切支丹に畏敬の念を抱きますが、彼らが迫害されたのにはカトリックが侵略の精神的工作手段になっていたことなどそれなりの理由があり、個人レベルでも長崎の隠れ切支丹の末裔たちは自分たちのカミを「上(かみ)」として佛教徒とつき合うことを「下る(くだる)」と言うなど社会的な異端者であったことは間違いないでしょう。
何よりも日本の切支丹=キリスト教徒は明治期から増加することなく推移していますから、中庸=適度を旨とする日本人に唯一絶対のカミと言う偏狭で頑なな信仰は合わないのかも知れません。
  1. 2013/02/23(土) 09:06:28|
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