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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月13日・男気の大歌手・村田英雄の命日

2002年の明日6月13日は昭和の男を謳い上げた大歌手・村田英雄さんの命日です。
野僧は那覇基地で勤務していた頃、築城基地から転属してきた福岡県京都郡苅田町出身の先輩がカラオケに行くと先ず「無法松の一生」を唄うためその男臭い歌詞に染まってしまい、ミュージック・テープを買うとたちまち全曲を覚えて自分でも唄うようになりました。後年、門司出身の女性幹部自衛官と飲みに行くようになると持ち歌はやはり「無法松の一生」でした。そこで愛知県岡崎市出身の野僧も「人生劇場」を唄って急接近したのですが、ミュージック・テープは彼女に貸しっ放しです(そろそろ返せ)。
村田さんは昭和4(1929)年に福岡県浮羽郡吉井町=現在のうきは市で興業中だった浪曲師夫婦の子として生まれました。生まれてすぐに母親の姉弟子の養子になり、その養母が結婚したため血がつながらない両親ができました。当時の芸人は巡業生活だったため村田さんも養父母と一緒に九州各地を渡り歩きながら成長し、4歳の時には座長から芸名をつけてもらって初舞台を踏み、その後、当時の人気浪曲師の名前に少年をつけた芸名を無断で使うようになったところ本人に知られ、謝罪のために大阪へ訪ねたついでに声を調べてもらい5歳で弟子入りを許されました。こうして13歳で真打ちに昇進すると14歳で座長になり、九州に戻って巡業を再開したのです。
昭和20(1945)年に16歳で海軍に志願すると佐世保に配属され、博多の専売工場から砂糖を輸送する任務に就いていた6月19日に福岡が大空襲を受け、現地で遺骸の回収に当たったそうです。
敗戦後は旅芸人生活に戻り、昭和22(1947)年には少女浪曲師と結婚しました。そんな昭和24(1949)年に芸能プロダクションの社長に手紙で売り込むと師匠との間で話がまとまり、単身で上京して村田英雄の芸名で売り出すと作曲家の古賀政夫さんの耳に止まり、浪曲の演目だった「無法松の一生」を古賀さんが歌謡曲化した楽曲でレコード・デビューを果たしました。野僧の愛唱歌である村田さんの代表曲の1つ「夫婦春秋」はデビュー前の夫婦生活を描いたとも言われています。
しかし、「無法松の一生」を始めとするレコードは人気映画の主題歌であってもヒットには恵まれず、昭和36(1961)年になってようやく「王将」が映画と共に大ヒットしたことで過去のレコードも見直されてようやく人気歌手としての地位を獲得したのです。ただし、歌手としては不遇を囲っていても浪曲師としては名が売れていたので生活に困窮していた訳ではないようです。
村田さんは三橋美智也さんと春日八郎さんと並び評されることはあっても、何故か三波春夫さんとは対立的に見られることが多く、共演するテレビ番組の台本に「三波は上手(かみて)、村田は下手(しもて)」と書かれているのを見て「何で三波は上手(じょうず)で俺が下手(へた)なんだ」と激怒したと言う有名な逸話がありますが、これは芸能マスコミがライバルとして書き立てだけで実際は同じ浪曲出身であり、6歳年長で歌手としては先輩のため敬意を払い、礼儀を尽くしていたそうです。
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  1. 2019/06/12(水) 11:27:27|
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