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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月12日・相馬原駐屯地事件が発生した。

昭和27(1952)年の7月12日に群馬県の相馬原駐とん地(当時は「屯」の字が当用漢字に登録されていなかったため公共施設などに用いることができず「駐とん地」と表記していた)の警察予備隊を狙った襲撃事件未遂が発生しました。
この時点の朝鮮戦争は北朝鮮の奇襲的侵攻によって韓国軍と国連軍は釜山付近にまで追い込まれ、山口県豊浦町に亡命政府の首都を建設する準備も極秘裏に進められていました。ところが国連軍が半島中央部の仁川に上陸したことで形勢が逆転し、逆に平壌付近まで押し返したもののその側面に共産党中国が割り込んできたことで開戦前の38度線付近で国連軍と共産党中国軍(韓国軍と北朝鮮軍は脇役になっていた)が対峙する膠着状態に入っていました。しかし、長期戦になると建国間もない共産党中国の戦力が続かないことを知っていた北朝鮮の命令で敗戦後も日本国内に残留している北朝鮮人によって編制された祖国防衛隊と武力革命を標榜していた共産党軍事委員会が協力して在日国連軍への攻撃と学生を中心とする反政府運動・破壊活動を激化させていたのです。
相馬原駐屯地は群馬県北群馬郡榛東村と高崎市の相馬原演習場に隣接しており、現在は第12師団司令部が所在するため駐屯地司令は副師団長が兼務しています。陸上自衛隊の駐屯地は帝国陸海軍の軍用地が敗戦後に占領軍に接収されてから警察予備隊に払い下げられていることが多いのですが相馬原駐屯地の歴史は意外に浅く、第2次世界大戦への参戦直前の昭和16(1941)年8月に岩手県盛岡市にあった陸軍の盛岡予備士官学校(平時は民間人として生活しながら応招されると下級士官になる予備役士官を養成した教育機関)が前橋予備士官学校として移駐したのが始まりで、敗戦後はアメリカ軍が接収し、昭和25年に警察予備隊が創設されると昭和27(1952)年4月1日から同居することになり、相馬原演習場に隣接しているため特科(=砲兵)と特車(=戦車)部隊が編成されました。
相馬原駐屯地事件は警察予備隊が配備されて2カ月が経過した昭和52(1952)年6月頃から北朝鮮の祖国防衛隊や共産党の軍事委員会が内部の調査を始め、同時に「朝鮮出兵反対」の貼り紙を駐屯地の周辺に掲示するようになりました。
この動きを5月1日に皇居前広場で繰り広げられた血のメーデー事件や6月24日・25日に大阪で起きた吹田・枚方事件、7月7日に名古屋での大須事件に連動した暴動の予兆として警戒を強めていた群馬県警が「在日朝鮮人10名が竹槍を持って相馬原方面に向かった」と言う情報を入手して目撃現場に急行すると情報通りの集団を発見し、職務質問したところ竹槍だけでなく火炎瓶や硫酸を所持していたため爆発物取締罰則違反容疑で逮捕したのです。その後、逮捕者の供述から駐屯地の爆破計画が発覚し、群馬県内の山中にあったアジトが発見されたため7月29日の包囲・捜索で5名が逮捕されました。
この事件は共産党が在日朝鮮人と共同謀議と破壊活動を繰り返していた史実として重要でしょう。共産党が武力革命を放棄したのは昭和30(1955)年の全国協議会での決議を受けて昭和33(1958)年の同協議会で正式に破棄されてからです。
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  1. 2019/07/12(金) 13:09:51|
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