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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月27日・水戸光圀が「大日本史」の編纂を始めた。

1657(明暦3)年の明日2月27日に水戸光圀が「大日本史」の編纂を始めました。
水戸光圀と言えば水戸黄門ですが、あの物語はこの「大日本史」編纂のため家臣の佐々介三郎が資料を探して全国を旅したことを元に作られました。したがって湊川の古戦場跡にの在る「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建立したのも光圀の命を受けた佐々で、本人が大阪まで出向いた訳ではありません。
佐々が持ち帰った資料を整理、検証したのが学者の安積覚で、この二人が助さん、格さんのモデルです。
もう一人、モデルが実在するとされているのが風車の弥七です。盗賊出身で光圀に仕え、隠密の役を担ったとされる松之草村の八兵衛だと言われていますが、墓所を観光名所にするため当時の那珂郡緒川村(現在の常陸大宮市)が創作したと言う説の方が有力です。八兵衛と言えばウッカリしそうですが、弥七ですからお間違いのないように。ついでに言えば実在の八兵衛の妻もお新ですが、これもモデルなのかは不明です。
大日本史の水戸史学は、尊皇思想で一貫しており、天皇の批判どころか評価することも厳禁、天皇の味方は正義、朝廷に仇した者は許し難き悪と言う型にはめ込められて雁字搦め、その残滓は現在も日本史を学ぶ人々の意識の底流に溜まっているようです。
おまけに光圀は祖父の家康が朝廷の勢力を削ぐ施策に腐心していたことも考えず、徳川将軍家を含む鎌倉、足利将軍でさえ天皇に仕える家臣であると断じており、御三家でなければ許されない甘えた歴女ならぬ歴殿と言えるかも知れません(この事業を始めた時、光圀は18歳でした)。
「大日本史」が完成したのは1906(明治39)年のことで252年かかっており、397巻、目録だけでも5巻の気が遠くなるような大著ですが、資料の発掘や整理に功績はあったものの史実の検証には教条主義、先入観が強過ぎて信頼性は低く、戊辰戦争につながる尊皇攘夷運動を巻き起こした罪の方が大きいと考えます。
ところでドラマの水戸黄門と言えば東野英治郎さんですが、野僧は月形龍之介さんも記憶に残っています。その後は西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さん、里見浩太郎さんと続きましたが、テレビの古い映画で見た徳川夢声さんも忘れ難い魅力がありました。
ついでに言えば杉良太郎さんのファンだった祖母は、助さんが里見浩太郎さんに代わった時、孫の野僧に番組を見せながら「前の方が好かっただろう」と返事を強要していました。
最後に題名の「黄門」ですが、これは関白の太閤、将軍の大御所などと同じく引退した中納言の尊称なので生前は権中納言だった光圀は名乗れません(没後に権大納言を贈られていますが)。更に「副将軍」と言うのも水戸藩が勝手に称していただけですから他藩では通用しません。
月形龍之介東野英治郎
左・月形龍之介さん、右・御存じ・東野英治郎さん
徳川光圀御本人には髭がありません。


  1. 2013/02/26(火) 08:09:22|
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