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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月18日・「宮沢」と間違えては駄目!宮本顕治の命日

2007年の7月18日は最期まで革命政党としての日本共産党で君臨していながら、死後は大衆政党への路線転換のため急速に消去された宮本顕治委員長の命日です。
昭和63(1988)年2月6日の衆議院予算委員会で共産党の議員の挑発を受けた浜田幸一委員長が「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治くんを国政の中に参加せしめるような状況を作り出した時から日本共産党に対して最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と発言し、その議員が宮沢喜一大蔵大臣への質問中にも昭和8(1933)年12月24日に発生した共産党による党員リンチ殺事件=査問事件を解説した後で「私が言っているのはミヤザワケンジが人を殺したと言っただけじゃあないですか」と一方的に繰り返しました。この姓を取り違えるのは浜田委員長に限った話ではなく、以前はテレビの報道バラエティーなどでも政治屋やベテランの言論人が言い間違えた後、宮本と宮沢で混乱して失笑を買うことがありました。
宮本委員長は萩市出身の野坂参三名誉議長と同じく山口県の光市出身です。旧制徳山中学校を卒業し、旧制松山高校へ進学した頃から文学に目覚め、東京帝国大学在学中に芥川龍之介の評論が雑誌の懸賞に首席当選して文壇デビューを飾りました。次席だったのは後に評論界の重鎮になる小林秀雄さんでしたから宮本委員長の際立った実力が判ります。
しかし、当時の日本は大正デモクラシーの自由民権運動が明治期のヨーロッパへの留学生が持ち込んで水面下で蔓延していたマルクス主義の階級闘争に変質し、そこに火を点けるように1917年にロシア革命が発生したことでインテリ=エリートたちは共産主義を志向するようになり、文学界でもプロレタリア文学が芸術性を追求する本来の文学者たちを席巻する状況になっていました。宮本委員長もその流行に染まり、昭和6(1931)年に帝国大学を卒業すると間もなく秘密結社だった共産党に入党したのです。
宮本委員長は昭和8(1933)年12月26日に治安維持法違反で逮捕され、前述の査問事件の殺人も加えて裁判にかけられることになりました。その収監中に学生時代から事実婚の関係にあった女流文学者の宮本百合子さんと結婚しています。
裁判は宮本委員長の発病と療養のため逮捕から7年後に始まりましたが、現在も共産党が「思想弾圧のための暗黒裁判」と批判するような異常・不当性はなく、査問事件についても殺害を目的した暴行ではなく過度のリンチによる外傷性ショック死と結論づけて無期懲役の判決を下しています。その結果の昭和20(1945)年6月に網走刑務所に収監されたものの8月の敗戦によって進駐した占領軍司令部が10月に出した政治囚の釈放命令で不法監禁、傷害致死、死体遺棄などの刑法犯でもありながら釈放されました。共産党は「過酷な獄中生活」と言っていますが早い話が避暑に行ったようなものです。
その後は党内抗争を繰り広げ、中でも同県人である野坂参三名誉議長の追い落としと抹殺には精力を注ぎ、幕末の毛利藩で繰り返された血で血を洗う権力闘争(歴史の教科書では倒幕運動の走りになっている)の再現のようでした。やはりウッカリにでも「雨ニモ負ケズ」の宮沢賢治くんと間違えてはいけない凶人のようです。
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  1. 2019/07/17(水) 11:47:44|
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