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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月3日・病院船・橘丸がアメリカ軍に拿捕された。

1945年の明日8月3日に帝国陸軍が連合国側に通告していた正式な病院船である橘丸がアメリカ海軍の臨検を受けて兵員の移動に使用されていることが判明したため拿捕されました。この時、南方軍総参謀長の沼田中将以下の1562名が捕虜になり、同時に捕虜となった人数としては帝国陸海軍の最高記録を樹立しています。
第2次世界大戦時、帝国陸軍は17隻、帝国海軍は4隻の連合国側に通告した正式の病院船を保有し、太平洋の離島に配置されている守備隊の巡回医療などに当たっていることになっていました。しかし、実際は医師や医療機材、薬品などの絶対数が不足していたため傷病兵を本拠地に移送することが主任務になっていて、これに健康な将兵を同乗させて部隊の移動に利用することが常態化していました。
その一方で連合国側も帝国陸海軍から通知を受けていながら潜水艦や航空機に情報を徹底せず、夜間の雷撃や高空からの爆撃によってほぼ無差別に撃沈しており、帝国陸軍の17隻のうち敗戦時まで生き残ったのはこの橘丸のみ、帝国海軍は現在、横浜港に重要文化財として展示されている氷川丸のみでした(通告しなかった臨時・転用病院船は除く)。
事件はフィリピンがアメリカ軍の手に落ちたことで南方軍司令部が存在理由を失ったインドネシア北部の太平洋上にあるモルッカ諸島のカイ諸島の第5師団を撤収させ、イギリス軍の奪還作戦が予想されるシンガポールやジャワ島に配置替えしようと考えたのですが、この方面の移動は帝国海軍が重巡洋艦や軽巡洋艦で実施して失敗していたため窮余の策として思いついたのが病院船・橘丸の悪用だったのです。
橘丸は昭和初期に湧き起こっていた伊豆大島旅行ブーム(三原山火口への投身自死も流行していた)によって増加していた旅客数に対応するために建造された大型貨客船で、総トン数1772トン、全長80.4メートル、全幅12.2メートル、最大速度17.8ノットでした。その流線型で優美な船型から「東京湾の女王」と呼ばれましたが、巨大過ぎる船体が災いして下田港と大島港に接岸できず、乗客は交通船で上陸・乗船することになり、日支事変の勃発によって旅行ブームが下火になったことで出番を失い、昭和13(1938)年には帝国海軍に病院船として徴用されたのです。ところが揚子江で医療活動を実施中に国民党軍機の空襲を受けて座礁、横転し、修理後は貨客船に復帰したものの昭和18(1943)年に今度は帝国陸軍の病院船に徴用されたのです。
この作戦では7月27日にベトナムを出港し、7月31日にカイ諸島に入港、8月2日に白衣を着て傷病兵に化けた将兵1562名を乗せて出港しましたが、その時点でアメリカ海軍の飛行艇が上空から監視しており、3日の早朝にアメリカ海軍の駆逐艦2隻に停船を命じられて臨検を受け、医療関係者が乗務しておらず、傷病兵にも症状や負傷部位がなく、さらに大量の武器と弾薬が見つかったため武力紛争関係法違反と断定されて拿捕され、フィリピンに連行されました。関係者は軍事裁判にかけられましたが、軍の高級幹部は有罪(死刑はなかった)、船長以下の乗員は無罪でした。一方、橘丸は敗戦後も昭和48(1973)年まで大島航路で大活躍しました(三原山噴火時の全島民避難などでも)。
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  1. 2019/08/02(金) 11:26:09|
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