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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月3日・桜田門外の変

1860(安政7)年の明日3月3日(太陰暦)に桜田門外の変が起き、大老+彦根藩主・井伊直弼さんが殺されました。
航空自衛隊幹部学校では皇居一周競走が伝統行事になっていて野僧も参加しましたが、出走前にアップしながら見て回ると彦根藩邸跡から事件現場、さらに桜田門までがあまりに近く(400メートルトラック一周くらいか?)、「何で異変に気づいた井伊の家臣や城門を守る幕臣が駆けつけなかったのか?」が不思議でした。
井伊直弼さんは「花の生涯」と言う大河ドラマでは主人公ですが、それ以外の幕末ものでは、安政の大獄で勤皇の志士を弾圧した悪役になっています(「徳川慶喜」の杉良太郎さんは迫力があったけれど見劣りする共演者が可哀そうでした)。
あの時代を考えると、アヘン戦争で清が敗北したことをオランダからの情報で知っていた幕府が黒船を目の当たりにして開国に踏み切らざるを得なかったのは常識であり、それを全く知らない京都の朝廷がヒステリックに攘夷を叫ぶのを説得し、勅許を得ている暇がないのも現実であって、大老・井伊直弼さんの政治判断は正しかったのでしょう。さらに攘夷を叫ぶ不逞の輩を焚きつけていたのは徳川御三家の水戸斉昭であり、これを放置すれば徳川家の屋台骨が揺るぎかねないと言う危機感を抱いたのも当然です。
井伊さんを襲ったのは斉昭への処分を恨む水戸の脱藩浪士と個人参加の薩摩藩士・有村次左衛門の18名でしたが、襲撃の噂は井伊さんの耳にも伝えられていたにも関わらず全く危機感はなく、季節外れ(太陽暦なら3月下旬)の大雪で大小刀には柄袋を被せて咄嗟には抜けなくしており、門前に番を立てることもありませんでした。
現場は杵築(きづき)藩邸前ですが、藩士たちは目の前で大老の籠が襲われているのをただ見ていただけで、そのため詳細な記録は残しています。
それによると行列の家臣たちの多くは腰を抜かして手向かいも出来ず、籠を担いでいた中間(ちゅうげん)たちはいち早く逃走して置き去りにし、浪士が放った短筒のよって腰を撃たれた井伊さんは籠に座ったまま串刺しにされ、首を討たれたようです。
異変を知って彦根藩邸から藩士たちが駆けつけたのは首を奪った浪士たちが現場から立ち去ってからだそうですから、こうなると最早、武士の用を為していません。
その首を持っていた有村次左衛門は彦根に近い小藩・三上藩邸の門前で割腹したため、三上藩に持ち込まれましたが、藩主が首を討たれては藩が取り潰されると言う判断から井伊家は同年代で似た風貌だった家臣・加田九郎太の物と主張し、幕府としても大老が襲われたとなると権威が失墜するためその方向で処置し、井伊家から病欠届けが出ていたので、翌日に死んだことにしました。
ここで長州が絡んでくるのですが、長府毛利藩邸に逃げ込んだ水戸の浪士たちは異例の厚遇を受けました。それは吉良邸討ち入りの後、各藩預かりになった赤穂浪士を長府毛利家だけは罪人として冷遇し、後年、赤穂浪士が「忠臣」「武士の鑑」と称えられるようになると「武士道を弁えぬ薄情な藩」と陰口を叩かれるようになったのです。と無理に地元ネタをくっつけて終わります。
 井伊直弼さんが死の前日に詠んだ歌
咲きかけし たけき心の 花ふさは 散りてぞいとど 香の匂ひぬる 
  1. 2013/03/02(土) 08:23:44|
  2. 日記(暦)
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