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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第82回月刊「宗教」講座・日本の佛教史上最悪の凶事・一向一揆。

尊皇攘夷=富国強兵を掲げた明治期の国家神道の批判的な見方をすれば佛教は日本人から猛々しさを奪い、骨抜きした忌むべき宗教ですが、中でも浄土門は阿弥陀如来に全てを任せ切ることを説く宗門ですから合わせるべき掌に武器を取って反乱を起こすとは考えられません。それが起こった背景には凶暴な本性を内に秘めて信者たちを戦乱に送り込んだ狂信的指導者の存在があり、それが浄土真宗でも本願寺教団の8世門主である蓮如妾人(しょうにん)です。野僧は血統によって人間性に尊卑・優劣・善悪が生じるとは考えたくないのですが、蓮如妾人だけは親鸞聖人の出自である学者の公家である日野家の血統に突然変異のように現れた禍々しい存在であり、それを認めざるを得ません。現在の浄土真宗は教義の継承や法脈の正当性とは別に蓮如妾人とその子孫の政治的策略によって本願寺教団が主流を占めているため、この凶人を「中興の祖」と位置づけており、数多くの悪事を歴史的な根拠のない絵空事で脚色して疑うことを知らない門徒=信者たちに吹き込んでいますが、中でも一向一揆については自己弁護に懸命で、「打ち続く戦乱に苦しむ庶民を救うために立ち上がった」「一揆の拡大を恐れて首謀者を破門した」「切支丹禁教以上の最大の宗教弾圧」などの自己弁護=見苦しい言い訳を東西両本願寺教団が有する日本最大数の信者に信じさせることで多数決の論理を成立させて虚偽を事実化する策謀を繰り広げています。しかし、一向一揆の実態を客観的に検証すると蓮如妾人個人の資質によって浄土真宗の本願寺教団が佛教本来の教義を大きく逸脱し、宗教的洗脳によって狂気の殺人集団と化した門徒衆を使って浄土真宗の主導権を握り、やがては独立国家を作ろうとした大規模な反乱であり、宗教弾圧ではなく為政者でもあった武士による反乱の鎮圧だったと考えるべきです。
蓮如妾人は7世門主の存如さんが19歳の時に下女に手をつけて生ませた子供ですが、未婚だったため継承権がない「妾腹」にはならず長子とされました。その後、存如さんが正妻を迎えて生母は放逐されたものの蓮如妾人は本願寺に留められたため高貴な家柄の継母とその血を受け継ぐ義弟・義妹たちと比較されながら身分卑しい母親の性分を色濃く示して異常なまでに強烈な権力欲と権謀術に長けた乱世の組織経営者としては有能な人間に成長していったのです。この点も本願寺教団は日本人好みのお涙頂戴の苦労話に仕立て上げていますが、その後の行動を見れば曲がった性根が完全に屈折していったことは明らかです。その頃の本願寺は大谷御廟と言う別称でも判るように親鸞聖人の墓所を守るためだけの寺院に過ぎず朝廷から認定された浄土真宗の本山は関東の法系が受け継いでいる三重県津市一身田にある専修寺です(現在も)。ところが蓮如妾人が父親の死に乗じて継母や義弟を追放して門主の座を奪取すると組織経営者としての手腕を揮い(あくまでも「宗教者として」ではない)、急速に信者を増やしていきました。当時は応仁の乱とそれに続く戦火によって京都の街は荒廃しており、庶民は塗炭の苦しみに喘いでいたのですが、洛中に軒を並べる大寺院は皇室や公家の庇護を受けることで権勢を維持しようとするばかりで教団として救済の手を差し伸べることはなかったそうです(浄土真宗本願寺教団や他の宗派に批判的な宗教家の見解では)。一方、鎌倉時代以降、その役割を担っていた浄土宗は度重なる弾圧によって教団の主力は九州や関東などの地方に移っていました。利に敏い蓮如妾人がそんな間隙を見逃すはずがなく、自らが佛教の戒律を保っていない破戒僧であることを逆に誇示して、それを「罪深き人間も阿弥陀如来は漏らさず救ってくれる」と言う詭弁で布教すると庶民には絶望の暗闇の中に差した一筋の光のように見えたようで爆発的に信者が集ったのです。ここから先を本願寺教団は「常に念佛門を敵視している南都佛教や比叡山が放置するはずがなく、僧兵を派遣して堂宇を破壊したため蓮如妾人は一族を引き連れて逃亡した」と語っていますが、最初の逃亡先は比叡山の麓である琵琶湖の西岸の堅田ですから本当に抗争が起こっていたのなら敵の本拠地の至近距離に立ち入るはずがなく、この辺りからも虚構の化けの皮が剥がれてきそうです。最終的には越前まで逃亡したのですが、虚構では蓮如妾人の高徳を慕って多くの民衆が門徒になり、間もなく立派な寺内町ができたことになっています。ただし、歴史的な資料・記録では当時、北陸地方では高田派と本願寺教団の門徒の間で教義を巡る論争が発生しており、これを周旋するには傍流で人材不足あった本願寺教団は蓮如妾人自らが出向かざるを得なかったと言うのが真相のようです。実際、蓮如妾人は浄土真宗の正流である高田派・専修寺の乗っ取りを画策していて、高田派の有力な弟子を甘言を弄して籠絡し、一説によれば美女を近づけて誘惑させて、自主的に戒律を保っていた高田派に戻れなくしたため門主である真慧上人から断絶を通知されています。つまり敵対関係に陥った高田派と全面対決してこの機会に正統派の地位を奪取するために陣頭指揮を執るために乗り込んだと考える方が現実的です。その証拠に長亨2(1488)年から散発していた加賀一向一揆を業火にして天正8(1580)年に滅亡させた富樫政親さんの一族は高田派の門徒であり、教義を巡る論争では高田派を擁護していたことから蓮如妾人が武力に訴えて排除したと考えるべきでしょう。ちなみに富樫氏は歌舞伎の勧進帳にも登場する鎌倉以来の守護大名で、子孫は航空自衛隊の高射幹部で野僧は2回配下になっています。結局、加賀国では武家の支配者が不在になり、浄土真宗本願寺教団の自治国になったのですから蓮如妾人の戦略・行政的手腕には恐れ入るしかありません。
加賀一国を手に入れたところで満足すれば蓮如妾人も卓越した宗教経営者として日本史に名と業績を刻んだはずですが卑しい血筋の貪欲さに際限はなく、その後も影響力が及ぶ各地で反乱を続発させていきました。京都への返り咲きを狙って近畿一円で起こした亨禄4(1531)年の亨禄の乱と天文元(1532)年の大和天文一揆に続いて、永禄6(1563)年から7(1564)年には岡崎と安城を中心とする西三河に飛び火させています。この東照神君・家康公の生涯に於いて三方が原の合戦、本能寺の変直後の伊賀越え逃避行と並ぶ三大危機と言われている三河一向一揆も高田派との抗争であったことは意外に知られていません。松平氏=徳川家は家祖・親氏さんが時宗の遊行僧として三河の山村の松平郷に流れついたと言われていますが、岡崎城に入ってからは北に3キロの位置にある浄土宗の名刹・大樹寺を菩提寺にしていました。一方、矢作川を挟んだ地域を領有する家臣たちは浄土真宗の門徒が多かったのですが、その中核寺院は高田派の妙源寺(当初は明眼寺と書いた)でした。ところが妙源寺の末寺である上宮寺が蓮如妾人一派に乗っ取られたことで妙源寺と徳川家に敵意を見せるようになり、家臣が合戦に備えて広大な寺領を持つ上宮寺からも兵糧を徴収しようとしてことで一揆が勃発したのです。それでも「忠誠無比」と天下に謳われていた三河武士ですから家康公と直接敵対することはなく、高田派の門徒である家臣との間で熾烈な争いが繰り返されたのでした。この時、家康公が「犠牲を出さずに事態を終息させたい」と祈願した妙源寺の本尊を岡崎城に持ち返って徳川家の守りとしたのが現在は東京・芝の増上寺に祀られている黒阿弥陀です。高田派が一揆側の説得に当たったのは言うまでもありません。
その後、近畿に戻った蓮如妾人は京都ではなく大坂を新たな拠点と定め、巨大な城郭構造を持つ寺院を建立しました。これが石山本願寺です。石山本願寺は後に豊臣秀吉さんが大坂城を築城する際、そのまま本丸、二の丸、三の丸として再利用(全体の80パーセントの規模だったとする説もある)した本格的な城郭であり、ここに立て篭もっての石山合戦は元亀元(1570)年から天正8(1580)年に蓮如妾人の玄孫の顕如さんが正親町天皇の勅命によって織田信長公と和議を結んで明け渡すまでの十年に及ぶ長期戦になったのです。蓮如妾人の意思と禍々しき血統を継ぐ子孫=本願寺教団の門主にとって織田信長公は近江の浅井氏、越前の朝倉氏を討って北陸にまで勢力を拡大してきた重大な脅威であり、近畿地方を制圧しつつある強力な敵対者でした。このため歴代門主は各地の門徒に徹底抗戦を命じ、これまでの恩讐を捨てて比叡山や各地の武将たちと手を結んで信長包囲網を形成しました。逆に織田信長公にとっても石山本願寺と本願寺教団は「天下布武」を実現するための前提条件である近畿地方の支配の最大の障害になっていたため、本腰を入れてその制圧に当たりました。しかし、蓮如妾人以来の本願寺教団では現世を地獄と変わらぬ苦しみのみの暗黒世界と断じつつ「阿弥陀如来の本願によって罪を犯した者も念佛さえ唱えれば必ず極楽浄土に往生できる」と説いてきたので、門徒たちにとって死は苦しみから逃れ、極楽へ往生するための手段となり、死を恐れぬどころか進んで死を求める鬼気迫る戦いを繰り広げたため武将だけでなく雑兵たちが恐怖に駆られて武力による制圧は遅々として進みませんでした。雑兵の中には門徒も少なくなかったのです。さらに紀州の雑賀氏を味方につけて傭兵とし、天正元(1573)年に京都を追われて毛利氏を頼っていた足利15代将軍・義昭さんの仲介によって軍事同盟を結ぶなど継戦能力を固めていたので、信長公にとっては絶対に壊滅しなければならない障害となり、常軌を逸した過酷な処置を加えるようになりました。当初は堺で生産される鉄砲を多数保有し、その取扱いに熟練していた雑賀氏の勇戦や瀬戸内海を荒らしていた海賊の流れを汲む毛利水軍の活躍により、合戦は本願寺教団側が有利に進めていたのですが、軍事的天才である信長公は思いつくあらゆる手段を講じて形勢の逆転を図りました。先ず鉄板を張った大型軍船からの銃撃で毛利水軍を壊滅させると兵糧の補給を断たれた石山本願寺は飢餓状態に陥っていきました。そこで本願寺教団も窮余の策に出て、元亀元(1570)年に信長公の本国である尾張の喉元で高田派の本山・専修寺の門前でもある伊勢・長島の門徒に一揆を起こさせました。ところが天正2(1574)年にこれが鎮圧されると婦女子も容赦ない皆殺しと言う残虐な処置を受けましたが、本願寺教団は門徒たちの犠牲を顧みることなく翌天正3(1575)年には加賀の本願寺王国の後押しで越前の門徒に蜂起させましたが、こちらも天正4(1576)年に鎮圧されました。長島一向一揆で高田派は武力による反乱が本来の佛教や親鸞聖人が示した念佛の教えに背く凶事であることを説き、織田勢の執拗な捜索があったにも関わらず逃れてきた門徒たちを匿いましたが、蓮如妾人の狂気に洗脳され切っていた堅門徒(頑なまで信じ込んでいる門徒)たちを救うことはできなかったようです。
こうして本願寺教団の影響力による武装蜂起を断つと信長公は石山本願寺の息の根を断つ作戦に乗り出しました。元亀2(1571)年9月12日に日本の佛教の一大聖地であり、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人も若き日に学んだ比叡山を焼き討ちして僧兵だけでなく高僧・名僧までも皆殺しにして本願寺教団に信長公の怒りの凄まじさを思い知らせ、天正5(1577)年には紀伊に侵攻して雑賀氏を討って降伏させ、ついでのように独立的地位を標榜していた真言宗の本山である高野山や修験道の本山の吉野・金峯山寺への攻撃を窺わせて屈服させたのです。こうして石山本願寺=本願寺教団も風前の灯、根絶やし寸前になったのですが、ここで正親町天皇が余計なことをしました。天正8(1580)年に両者の和議を命じる勅命を発したため顕如さんは石山本願寺を焼き払った上で明け渡したのです。この結果、極めて残念なことに蓮如妾人の血統は継続してしまい、天正10(1582)年に信長公が本能寺で討たれた後は京都を舞台にした政治的策略と入れ替わる権力者を見定めることで浄土真宗内での勢力を拡大し、信じ難いほど巧妙で強固な教団組織経営によって主流を占めるようになってしまいました。しかし、所詮は宗教的見識ではなく宗祖からの血統だけを誇示する教団だけに各地の末寺や門徒から寄せられる疑義に対する回答は矛盾の連続で、その失策を糊塗するためさらに矛盾を重ねる愚挙によって現在の浄土真宗は佛教の実践や信仰と言う本来の姿を離れ、自己救済の道に迷いと悩み続けた親鸞聖人の思想からも逸脱しており、世の中の苦悩から隔離された京都の山門の中で暮らしている特権階級の机上の教条主義で決まった戯言を素直さだけが取り柄の門徒たちに周知徹底することで教団を維持しているのです。
余談ながら第二次世界大戦で日本軍は万歳突撃や特別攻撃と言う組織的集団自死を繰り返してアメリカ軍を戦慄させましたが、あれは一向一揆の模倣なのかも知れません。明治の元勲は没後に神社の祭神として神格化されていますが、実家は門徒が多く(鹿児島では隠れ門徒)、日本人は「南無阿弥陀佛」を「天皇陛下万歳」に置き換えて、死後には「極楽浄土」の代わりに「靖国で軍神にする」と保証すれば喜んで死ぬことを熟知していたのでしょう。高田派式に「なまんだぶ」
専修寺御影堂浄土真宗の本山・専修寺御影堂
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  1. 2019/09/01(日) 11:04:41|
  2. 月刊「宗教」講座
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