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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月12日・正体不明の帝国陸軍の首魁・杉山元元帥が自決した。

敗戦から10日が過ぎた昭和20(1945)年の明日9月12日に戦時下の帝国陸軍で要職を歴任しながらも上中下の周囲からは「便所の戸(押した方に開く=定見がない)」と陰口を叩かれていた杉山元(はじめ・げん)元帥が拳銃で自決しました。65歳でした。
杉山元帥は明治13(1880)年の正月に現在の北九州市小倉区の生まれ、陸軍幼年学校からの純粋培養が主流の帝国陸軍の将帥には珍しく旧制豊津中学校を卒業して陸軍士官学校に入営しました。士官学校を卒業して数年で日露戦争が発生したため、小倉の第12師団歩兵第14連隊第2大隊付の士官として出征し、ロシア満州軍の指揮権を分割されそうになったクロパトキン大将が面子から強行した攻撃で始まった沙河会戦の中の本渓湖の戦闘で顔面を負傷し、右半分が麻痺して目が完全には開かなくなりました。
日露戦争の終戦後、陸軍大学校に入校し、卒業後は情報を担当する陸軍参謀本部2部に配属されて明治45(1912)年から海軍軍令部の情報要員と一緒に商社マンに身分偽装してマニラに赴任しました。しかし、顔面に大きな傷が残り、半分麻痺した特異な風貌では接触した相手に記憶され易く、「諜報要員としては不利ではないか」と思ってしまいますが、記録には残っていないものの活躍はしたようです。それが評価されたのか大正4(1915)年からはインド駐在武官に任じられ、イギリスの植民地支配の実情を探り、独立運動の活動家に人脈を構築すると共に国際連盟の空戦法の制定会議(結局、現在まで未成立のまま)に空軍代表として参加するなど国際舞台へのデビューも果たしました。
杉山元帥は帰国後、陸軍飛行第2大隊長や陸軍省軍務局の初代航空課長を務め、後年、陸軍航空本部長にも就任したため「陸軍航空隊育ての親」との賛辞を受けています。
大正13(1924)年からは宇垣一成陸軍大臣の片腕として軍縮に大鉈を振るいましたが、統制派と皇道派の対立激化の中、皇道派の首魁・荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将が実権を握ると次官の職を追われて古巣の第12師団長に左遷されました(中央から見れば)。
その後は皇道派の凋落によって中央に返り咲き、戦争に向かって前のめりに突き進む帝国陸軍で陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍3長官を歴任しながらこの国を滅亡に引き込んだのです。杉山元帥は第2次世界大戦への参戦に当たり、昭和の陛下から「作戦完了の見込み」を問われて「3か月」と答えたため、陛下が「お前は支那事変を2カ月で片づくと言ったではないか」と詰問され、それに「大陸は奥地が広うございました」と弁明すると「太平洋はなお広いではないか」と反論されて答えに窮したことがあったそうです。
その一方でヒトラー総統が全権を握るナチス・ドイツに倣って東條英機首相が陸軍3長官を兼務しようと退任を迫るのに対して「統帥権の独立」を盾に抵抗しています。
敗戦時、杉山元帥は本土決戦において関東地方を第1総軍の司令官でしたが、進駐してきた占領軍司令部から将兵の復員を礼を尽くして委託されたためこれに全力を傾注し、それが完了した翌日に司令官室で心臓を4発射って自決しました。なお、国防婦人会の役員だった妻も杉山元帥の自決の連絡をうけて青酸カリを飲み、短剣で胸を突いて後を追いました。杉山元帥としては生きて養女を育てることを希望していましたが拒否されました。
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  1. 2019/09/11(水) 13:31:12|
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