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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第83回月刊「宗教」講座・カソリックが犯した大罪科「十字軍」

※私事に忙殺されていて1日の掲載を忘れました。申し訳ありません。
現在も日本の学校が使用している社会科=世界史の教科書は明治期にヨーロッパの学説を鵜呑みにした歴史観の上に敗戦後にキリスト教国が多数を占める占領軍によって修正を加えられたため完全にキリスト教国=バチカン側に立った視点で記述されており、十字軍についてはキリスト教の聖地であるエルサレムをイスラム教徒に「奪われていること」を憂いたバチカンの教皇の命に呼応した国王や中小領主、さらに個人参加の人々が出征した宗教戦争と肯定的に教えられてきました。しかし、実態は全く違っていて「聖地の奪還」の大義名分を掲げていてもやったことは侵略と殺戮、破壊と略奪、そして強姦と時代が違うとは言え人倫に背く極悪非道の限りを尽くした一大凶事でした。そもそも「エルサレムを奪われた」と言ってもイエスを処刑し、使徒たちを殉教させ、教団を排斥したのは古代ユダヤ教団であり、何よりもエルサレムはキリスト教だけでなくユダヤ教にとっては「嘆きの壁=古代ユダヤ教の神殿の外壁」、イスラム教にも「岩のドーム=旧約聖書でアブラハムが息子のイサクを創造主に捧げようと台にした岩を覆ったイスラム式のドーム」が所在する聖地なのです。補足すれば人類学的にはユダヤ人とアラブ人には差異がなく、ユダヤ教を信仰しているか否かで分類されています。その一方で本来は縮れ毛で奥目、大きな顎と太い唇のアフリカ人的風貌だったアラブ系民族が現在のようなヨーロッパ人的な容姿になったのは女性が十字軍に集団で強姦されたことで混血が進んだとする珍説もありますが時期的に近過ぎる上、占領地域は限定されているため単なる妄想の類でしょう。
十字軍の始まりは日本で言えば平安時代後期に当たる1095年に現在のトルコやギリシャを支配していた東ローマ帝国の皇帝だったアレクシオス1世=コムネノスがバチカンの159代教皇のウルバノス2世にイスラムからの圧迫に対抗するためバチカンの傭兵の貸し出しを依頼する際、「エルサレムの奪還」を口実にしたことでした。現在もバチカンではスイス人を傭兵にしていますが、アルプスの山岳地帯で暮らすスイス人は身体強健で勇猛果敢、かつ狩猟に熟練しているため少数でも屈強の精兵揃いなのです。この要望を鵜呑みにしたウルバノス2世はその年の11月にヨーロッパの皇帝・国王や諸侯を集めて開催された教会会議で「エルサレム奪還」を扇動し、「参加者には免罪を与える」と宣言して話を大きくしてしまい、これに呼応した騎士たちが1096年から1099年に十字を描いた旗を掲げてエルサレムへ進撃しました。一方、アラブではイスラム教への信仰では一致していても部族以上の社会性を持っていなかったため騎士たちの軍団に各個撃破され、異教徒を人間とは認めていないキリスト教の論理で容赦のない殺戮と破壊、略奪と強姦を受け、エルサレムを中心とする各地にヨーロッパでは「十字軍国」と呼んでいる占領地域が乱立しました。ところが本国から遠く離れた中東の占領地域を騎士軍団の力で維持することは不可能であり、先ず食料などの生活必需品をアラブ人から購入しなければならないことから敵対関係が薄れ、騎士本人が帰国すると事実上は元の状況に復していきました。実はこの伏線となる事件があって、1096年にフランスのアミアン聖堂の司祭であるピエールがエルサレムへの巡礼をしていてトルコ人に阻止されたことに怒り、帰国すると民衆を率いて強行巡礼を試みたとこがありますが、この時は退去勧告に従わなかったため大多数は殺害されています。なお、生き残ってフランスに戻ったピエールは司祭でありながら最初の十字軍に同行して騎士たちのアラブ人=イスラム教徒の大量殺戮や集団強姦を扇動・指揮しました。ところが十字軍によるエルサレム奪還に気を良くした各地の諸侯が12世紀の幕開けである1101年に勢力圏の拡大を狙って出兵すると前回の敗北と損害を教訓として連合を組んでいたアラブ人に完膚なきまで叩きのめされて敗退しました。この失敗を見て今度は1107年秋から1110年にかけてノルウェーの国王・シグル1世が海路からの十字軍を派遣しました。この時は北大西洋の周辺地域を支配下に置いていたバイキングそのままに60隻の軍船に5000人の将兵を乗せて出港すると十字軍への共鳴で味方をする沿岸国の助力を受けながら南下し、ジブラルタル海峡から地中海には入ってトルコのコンスタンチノーブルからは陸路でエルサレムに到達しました。ただし、駐留はしていないので単なる顔見せに終わりました。
それから30年間は膠着と言うよりも慣れによる共存状態が続きましたが、イスラム側のセルジューク朝に卓越した武将・ザンギーが現れたことで事態は急変し、1144年に十字軍王国を追い落としてエルサレムを奪還したのです。これをうけて167代教皇のエウゲニウス3世が名説法師の聖ベルナルドを派遣して各国を扇動させ、フランス国王のルイ7世と神聖ローマ帝国のコンラート3世が出征を受諾し、1147年から1148年に十字軍を派遣しました。しかし、この連合軍は統制が機能せず、ザンギーの指揮に翻弄されるばかりで戦果を上げることなく撤退することになりました。おまけにこの十字軍の派遣を決定した1147年の教会会議でドイツ国王が当時は土着の宗教(ギリシャ正教とする説もある)を信仰していたバルト海沿岸のヴェンド人やプロイセン人、エストニア人、リトアニア人の討伐を申し出てこれが承認されたため、イスラム教徒からエルサレムを奪還すると言う大義名分が異教徒の廃絶に拡大し、ドイツの領土的野心を正当化するお墨付きを与えることになりました。
そこで再び40年ほどの休息状態に入ったもののイスラム側が「ジハード=聖戦」を宣言し、後にエジプト・シリア・イエメンを支配するアイユーブ朝の始祖となる武将・サラディンが十字軍国を壊滅しました。これを受けて173代教皇のグレゴリウス8世がイングランド国王のリチャード1世とフランス国王のフィリップ2世、そして神聖ローマ帝国の皇帝・フレードリヒ1世に呼び掛けて1189年から1192年に十字軍を派遣しました。ところが今回も苦戦続きで、フレードリヒ1世は渡河中に溺死し、2人の王も目立った戦果を上げることなく休戦協定を結んで帰国したのです。それをよそにドイツ国王は1193年に再びバルト沿岸への十字軍を申し出て174代教皇のクレメンス3世が承認したことでドイツの領土は拡大していきました。
そこから50年間の幕間を置き、1202年から1204四年にかけて176代教皇のインノケンティウス3世が大幅の戦略転換を伴う十字軍を派遣しました。今回はエルサレム奪還と言う趣旨を脇に置いてイスラム勢力の中核・アイユーブ朝の本拠地になっていたエジプト攻略を目指したのですが、戦費不足で輸送を請け負ったヴェネチアへの報酬が支払えず、その見返りにカソリック国であるハンガリーのザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻略したため十字軍自体が破門される失態を演じました。その失敗の直後の1209年から1229年には176代教皇のインケンティウス3世がイタリア半島のつけ根から南フランスで多くの信者を獲得していたカタリ派を異端と弾劾してイギリスの貴族にアルビジョア十字軍として出征を命じました。この十字軍は異端者を異教徒以上の大罪人と考えていたため根絶やしにするべく徹底的な殺戮を繰り広げ、これに反発したフランスの諸侯との間で戦闘も発生したため予定外に長期化したのです。隣接する地域で血みどろの戦いを行わせておきながら177代教皇のホノリウス3世は1218年から1221年にハンガリー国王のアンドラーシュ2世とオーストリア皇帝のレオポルト6世による十字軍を派遣し、前回と同様にエジプトを攻撃しました。イスラム側は予期せぬ攻撃に混乱し、軍港のダミエッタの占領を許しましたが、カイロに侵攻する頃には体制を立て直し、これを撃退して失敗に終わらせました。すると今度は178代教皇のグレゴリウス9世が「十字軍の実行」を条件に戴冠させた神聖ローマ帝国のフィリードリヒ2世に出陣を命じましたが、戦争の準備を理由に先延ばしを続け、ついには破門された1228年になってようやく出陣するとイスラム側との交渉でエルサレムの形式的な統治権を獲得して休戦しました。ところが教皇は破門中のフィリードリヒ2世が独断で休戦したことを背信行為として追討の十字軍をしたものの1229年には完全に撃破されて終息しました。
この一連の悶着で教皇が長期にわたる遠征に要する莫大な戦費と多大の負担を全く理解していないことが知れ渡り、十字軍に応じる国は減少していきました。それでも1244年にエルサレムがイスラムに奪還され、キリスト教徒2000人が殺害されため国内から異端者を出し、配下の諸侯が十字軍に刃向ったことを負い目に感じていたフランス国王のルイ9世が180代教皇のインノチェンツィオ4世の呼び掛けに応じ、1248年から1249年にエジプトを目指しますが捕虜となり、莫大な身代金を支払って釈放され、帰国しました。それにも懲りないインノチェツィオ4世は1251年にはイスラム教徒によって支配されていた時代にスペイン北東部の内陸にあるトゥデラに移住し、農民や商人として自治を認められていたユダヤ人を異教徒として大量殺戮しています。そんなバチカンに忠誠を抱き続けていたルイ9世は1270年にも十字軍としてチュニス(現在はチュニジアの首都)を目指しますが途中で病没しました。その意志を受けたルイ9世の弟・シャルル・ダンジューはイギリスの王太子だった後のエドワード1世と共に184代教皇のグレゴリオ10世の命を受けて1271年から1272年にイスラム側の圧迫によって十字軍国が風前の灯火になっていたエルサレムに向かいますが阻止されて撤退、これにより十字軍国によるエルサレムの支配は400年に3年満たずに終了しました。この頃になるとバチカンは十字軍を莫大な戦費を要する遠征ではなく、当時、本格化していた異端審問と連動して異端と断定した信仰を行うヨーロッパ圏内の地域や教団に派遣することが増え、単なる宗教弾圧の手段になっていきました。実際、196代教皇のヨハネ22世は1320年から1321年にも十字軍をスペインのトゥデラに派遣して30000人ものユダヤ人を大量殺戮しています。
バチカンが執拗に十字軍の派遣を決定し、各国の皇帝、国王、諸侯から庶民までがこれに応じたのはキリスト教が同じ旧約聖書の創造主であるユダヤ教のヤハウェやイスラム教のアッラーを認めず、キリスト教=カソリックが説くディオ(=英語のゴッド)だけを唯一絶対で正当な創造主だと信じ、これらの宗教は旧約聖書の中で何度も罰せられる背信の邪教に過ぎず、これを自らの手で滅ぼし、全世界をキリスト教で統一することを創造主に対する忠誠心の証明と思い込んでいたからです。その一方で十字軍はアラブ地域の東方教会の集落も攻撃し、敬虔なクリスチャンたちまで大量殺戮していますから信じていたのはカソリックだったのでしょう。つまり十字軍が殺戮しているのは創造主に祝福された人間ではなく滅ぼすべき背信の徒に過ぎませんから罪の意識を微塵も抱くことはなかったのです。現在では産業革命によって世界で唯一、機械工業を発展させたヨーロッパは軍事力だけでなく医学その他の科学技術と研究開発でも先進の立場を維持していますが、当時はバチカンが宗教による制約をあらゆる分野に加えていたため医学を含む科学の研究は著しく停滞しており、むしろインドや中国との東西交流を持っていたアラビアの方が先行していたのです。ところが十字軍によって先端技術に触れたことで、ヨーロッパでも医学を中心に天文学や化学などへの知的好奇心が芽生えたものの異端審問が為政者の手に渡った結果、発生した魔女狩りにおいてはアラビア伝来の医術で病者を治したユダヤ人が数多く処刑されることになりました。さらに十字軍国が衰退するとイスラム教のオスマン帝国が地中海貿易を独占するようになったため外れにあるスペインとポルトガルは大西洋に乗り出すことになり、大航海時代が幕を開いたのでした。その時、スペインやポルトガルが南アメリカやアフリカを支配する大義名分「キリスト教の布教」もカソリックが与えました。これだけ敵味方=キリスト教徒・非キリスト教徒を問わぬ多くの人々の生命を奪い、各地の都市や集落で破壊の限りを尽くし、資産を略奪し、女性の貞操を奪う大罪を犯しながらもバチカンやキリスト教徒が罪の意識を抱くことはなく、現在でも環境や人権、環境保全や動物愛護などの地域の特異性を自分たちの勝手な価値観で国際問題化して、完全に服従するまで圧力を加え続けてきます。
それだけなら異端審問の踏襲なのですが、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は聖公会からカロリック的に戒律を重んじるメソジストに改宗した敬虔なキリスト教徒だけに殊更にイスラム教を敵視しており、軍需産業の利益代表として大規模な戦争を望む側近の扇動を鵜呑みにして明確な証拠もないテロをイスラム過激派の犯行と断定してアメリカ軍を現代の十字軍とする事実上の第3次世界大戦を始めました。しかし、バチカンが十字軍や魔女狩りを含む異端審問を公式に罪と認め、懺悔のミサを勤めたのはバルト海沿岸への十字軍に蹂躙された被害地域であるポーランド出身の二六四代教皇のヨハネ・パウロ二世による2000年3月12日になってからです。結局、連合軍として勝利を収めたアメリカ、イギリス、フランスがナチス・ドイツによる大量処分の犠牲者として同情を集めていた「ユダヤ人の悲願を叶える」と言う名目で1948年にパレスチナの民からエルサレムを奪い、イスラエルを建国させることで事実上は十字軍の野望を実現したようです。
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  1. 2019/10/03(木) 13:14:47|
  2. 月刊「宗教」講座
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