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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1696

「岡田恵子事務官の送別会ですが、定年を延長した事務官がいる各部の合同で開くことに決まりました」先任会同を終えて事務室に戻ってきた曹長は女性事務官が席を外しているのを見て唐突に報告した。年齢で勤務年限が定められていて誕生日付で退官する自衛官とは違い事務官、技官、教官などの防衛省職員は定年に達した年度末で一斉に退官するため合同送別会になることも珍しくないが、今回は年度末に発生した東北地区太平洋沖地震による大規模な災害派遣に伴う特例処置で希望者のみ半年間延長されたのだ。法務官事務室としては私と曹長、1曹が交代で派遣された留守番(法務官の世話も含む)の功績への謝恩会を兼ねた特別な送別会を企画したいところだ。ただし、女性事務官は酒を嗜まないので隅田川の屋台船での船上宴会や最上級のレストランで超豪華なコースでも好いかと考えていた。
「それに二村事務官の歓迎会もやらない訳にはいきませんから合同送別会の後に二次会と言うことでどうでしょうか」言われるまで後任者の歓迎会は全く考えていなかった。後任者の人事記録が届いていないので詳しくは知らないが、曹長は陸幕内の陸曹たちから情報収集を始めているらしい。後任者の二村由美事務官は文書の処理と接客を担当する監理部総務課の所属とは言え郵政係なので大量に届く郵便物を整理する仕事を20年以上も続けてきたようだ。入隊した時期は佳織と大差はないがバブルで日本中が浮かれ狂っていた時代に東京の短大に通っていた後任者はアメリカに留学して隔離されていた佳織とは真逆の人間性のように感じる。
「大体、ウチは岡田事務官の後任にWACの陸曹を要望していたんでしょう。やはり定員の付け替えは無理だったんですか」曹長も引き継ぎに来てもやる気を全く感じさせない後任者には不満以上の嫌悪感を抱いているような口ぶりだ。各職場の人員配置は組織表の定員に基づいているが法務官室は私が定員外配置になっているため迂闊な要望は削減につながりかねない。それに気がついたのか私の返事を聞く前に自分の席に戻って行った。そこに女性事務官も戻ってきて曹長に笑顔で「お帰りなさい」と声をかけた。この穏やかな空気が今後どのように変わるのかを想像すると曹長ではないが頭よりも胃が痛くなってくる。
「岡田さん、4月から勤め始めるはずだった地元の司法書士事務所とは上手くいっているんですか」私は女性事務官が持ち返った書類の束を机に載せ、整理を始めたところに声をかけた。
「はい、千葉の個人事務所ですから電話番と書類の整理くらいの仕事ですよ。半年くらいは大丈夫だそうです」私が現在の職務に就いた頃に定年退官した女性事務官の夫も防衛省事務官で、関東圏の各駐屯地を転勤して回っていたため「妻が地球で夫は人工衛星だ」とからかわれていたと聞いている。その夫が習志野で勤務していた時に船橋市内に家を建てたのだ。
「司法書士の先生は私が現職の弁護士と一緒に仕事をしていると知ってこんなお婆さんを採用してくれたんです。だからモリヤ2佐のおかげで再就職できたようなものです」司法書士の仕事は登記や供託の代理や裁判所や検察庁、法務局に提出する書類の作成、さらに簡易裁判所の民事訴訟などでは当事者の代理を務めることもあるから弁護士と一緒に働いていれば参考になると思っても不思議はない。ただし、私の場合は個人的に開設している法律相談室に入る隊員からの電話や書簡に回答しているだけなのでテレビの報道バラエティー番組で弁護士が解説しているのを聞くのと大差はない。それでも各方面隊、各師団・旅団の法務官から届く報告をを整理する仕事を十年以上続けてきたのだから一般人よりは法律に詳しいのは間違いない。
「それで旦那さんの損害保険の代理店は儲かってますか」50歳を過ぎた自衛隊で言う定年前の高齢者たちの会話が途切れたところで30歳代後半の1曹が加わってきた。女性事務官が交代するとこの部屋の平均年齢は一気に若返るが、曹長も出身地の九州の部隊への定年配置を希望しているので遠からずメンバーそのものが大幅入れ替えになりそうだ。
「儲かっていたら私は就職しないで手伝いますよ。自衛隊に顔が利くから知り合いを訪ねて声をかければ幾らでも契約してもらえると考えていたみたいですが、幹部職の事務官では自衛官の人たちとは縁が薄くて中々話も聞いてもらえないようです」確かに私も入隊以来、少なからぬ航空自衛隊の基地と陸上自衛隊の駐屯地を回ってきたが事務官の知り合いはあまりいない。強いて言えば那覇基地の修理隊には地元採用の技官がいて一緒に仕事をしていたものの事務官は司令部で見かけるくらいで親しくなったことはない。
「それでも家の借金は終わってお子さんたちは独り立ちしていますからボチボチ働けば好いでしょう」「困った時にはモリヤ2佐の法律相談室に電話させてもらいます」私の世代の自衛官は50歳の定年までに家の借金を完済し、子供を独立させて退職金は丸々懐に入れる算段で結婚を急いだものだったが、定年が勝手に延期になって焦って嫁選びに失敗した連中は怒っている。私と美恵子の結婚がこれに該当するかは自分でも判らない。
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  1. 2019/10/07(月) 11:56:44|
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