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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月10日・双十節=中華民国国慶節

10月10日は大衆の意志は台湾としての独立に向かっている中華民国の国慶節である双十節です。この名称の由来が日付に十が双つ重なることなのは言うまでもありません。
日本では国慶節を建国記念日と邦訳することが多いですが中国の古代史は考古学の領域までさかのぼってしまうため、日本や韓国のように神話の伝承を史実化することにも無理があり、10月1日の共産党中国の国慶節は1949年に毛沢東▲(「さん」欠く)が天安門で国共内戦の勝利を宣言した日であり、中華民国の国慶節も実際は堂々たる外交交渉を行って独立を守っていた日本の徳川幕府とは異なり、沿岸の主要都市を次々と奪われながらも危機意識を持たずに贅沢三昧な生活にうつつを抜かし、宮廷内の権力争いに明け暮れていた満州族の清朝に漢民族が反旗を翻した辛亥革命(実態は文化大革命の予行演習だった)の発端となった武昌起義の日です。
日清戦争に敗れた清朝は守旧派から急進派まで内部分裂を起こしましたが、最も現実的な日本に倣った立憲君主制への移行を模索する派閥が実権を握りました。ところが守旧派(=側近・腰巾着・取り巻き)に悪評を吹き込まれた西大后の命令による弾圧を受けて挫折すると武力革命を目指す過激急進派が勃興し、急速に長江沿いの各地に拡散していったのです。それでも清朝は各地で起こり始めた近代化の要求が満州族支配への反発に発展すること危惧して1905年になって地方議会の設置を認めましたが、これは皇帝が認めた議題を討議する形式的なものでした。さらに1911年には皇族内閣を組織しましたが、国会の開設を伴う本格的な内閣制度の実現を要求していた急進派を失望させ、革命への機運を高めただけでした。そんな中、孫文さんは東京で革命派の中心人物たちと会い、中国同盟会を創設して革命に向けた活動を開始したのです。
この頃、欧米列強は腹の中では清をインドのように巨大な植民地化することを考えながら、表向きは産業の近代化のため全国に鉄道網を敷設する計画を押しつけてきましたが、清朝に見切りをつけ始めていた各地の権力者や富裕層がこれに同調し、支配地域内に路線を張り巡らせ始めたのです。すると相次ぐ欧米との戦争の敗北による巨額の賠償金や義和団事件などによる損害補償によって財政が逼迫していた清朝はこれらの鉄道を国有化することで収入増を図ろうとしたため各地の権力者たちの反発を招き、一気に革命に向けて動き始めたのです。
これに対して清朝は満州族による鎮圧部隊を派遣して鎮圧しようとしましたが、新たに創設された欧米式の軍隊の中には革命に共鳴している者が多く、鎮圧部隊が自分たちを摘発・捕縛・処罰するために来ると思い込み、実際に逮捕された中国同盟会の会員の中には軍籍に在った者が含まれていたため、1911年10月10日の夜9時に湖北省武漢市の武昌地区の新たな軍が派遣部隊を襲撃し、500人以上の満州族の将兵が殺害されました。これ契機を新たな軍は革命軍となり、周辺の各地域を占領してそのまま漢民族による満州族排除の内戦=辛亥革命が勃発したのです。
香港でも共産党中国に返還されるまではこちらの国慶節を祝日にしていましたが、現在は公式に禁止されていないものの個人で祝うことが黙認されているだけです。
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  1. 2019/10/09(水) 13:05:02|
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