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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月10日・帝国陸軍を本土決戦に駆り立てた宮崎周一中将の命日

昭和44(1969)年の10月10日はナチス・ドイツが降伏して全世界で孤立無援になってからも本土決戦により連合軍に一撃痛打を浴びせることで有利な条件で停戦すると言う幻惑によって帝国陸軍を降伏阻止に駆り立てた宮崎周一中将の命日です。
宮崎中将は明治28(1895)年に長野県飯田市で警察官の長男として生まれましたが、旧制中学校は愛知県豊橋市の現在の時習館高校に進学しています。敗戦時に千島列島・占守島に侵攻してきたソ連軍と死闘を演じた守備隊長=第11戦車連隊長・池田末男大佐も同校の出身(5歳年下)ですが軍暦や人間性は真逆のようです。
大正5(1916)年に陸軍士官学校を卒業すると仙台に在った歩兵第17連隊に配属されて任官しましたが予科士官学校の区隊長に移動し、そこから陸軍大学校に入校して17連隊の中隊長に復しています。2年後に陸軍参謀本部の外国戦史課に転属するとそこからは戦史研究の道を歩み始め、昭和7(1932)年8月に少佐に昇任すると陸軍大学校の戦史教官、昭和10(1935)年8月に中佐に昇任して昭和12(1937)年8月から翌年1月まで欧州出張、昭和13(1938)年3月に大佐に昇任すると6月に日支事変で新編された第11軍の参謀に配属され、翌年10月にはノモンハン事件の大敗を経験したばかりの歩兵第26連隊長に就任しました。それも腰掛のようなもので昭和15(1940)年10月には陸軍大学校の教官に戻り、翌年8月には少将に昇任しています。
こうして迎えた第2次世界大戦では昭和17(1942)年10月にガダルカナル島攻防戦で苦闘を続けていた第17軍の参謀長に転属してラバウルから作戦指導を行いますが、現地に移動してからは玉砕戦を主張したものの百武軍司令官の決断によって撤退が決定し、昭和18(1943)年5月に内地に戻って陸軍参謀本部第4部長(後方担当)に就任して8月には幹事として陸軍大学校に戻りました。昭和19(1944)年8月には大陸で新編された第6方面軍の参謀長に就任し、10月に中将に昇任すると12月に陸軍参謀本部第1部長(監理・人事担当)に就任しました。第1部長としては前線視察を積極的に行い、アメリカ軍が上陸を開始していたフィリピンに赴いて海軍が実施した捷1号作戦の失敗を確認したことで「本土決戦以外に勝機がない」と確信し、その後はその具体化に邁進することになりました。宮崎中将の見積もりでは本土決戦には50個師団が必要であり、陸軍内各部署との協議の結果44個師団、150万人を動員することが決定したのです。このため硫黄島や沖縄での戦闘に備えて配置する兵力も必要最低限に抑えられ、海上輸送で撃沈されて喪失した兵力の補充も拒否し、本来であれば宮崎中将が考えていた連合軍への一撃痛打になったはずの2つの戦闘が不十分なまま終わる結果になりました。
宮崎中将は帝国陸軍の戦史研究の第1人者だったはずですが、第2次世界大戦前のヨーロッパで本土決戦で勝利を掴んだ戦例としてはナポレオンを敗退させたロシアとソ連を撃破したフィンランドなどがあっても日本とは条件が違い過ぎます。
敗戦時は戦艦ミズーリ甲板上での降伏文書への調印式に立会し、その後は日米当局で敗戦史を記述することになりました。この屈辱が戦犯代わりの苦役だったのでしょう。
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  1. 2019/10/10(木) 12:11:00|
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