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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月12日・日本軍の「真の宿敵」・スティルウェル大将の命日

1946年の10月12日は第2次世界大戦前からアメリカの諜報部員として国民党軍に参加して極東方面全域での対日戦を指導した帝国陸・海軍にとっては「真の宿敵」と言うべきジョーセフ・ウォーレン・スティルウェル大将の命日です。
スティルウェル大将は1883年にフロリダ州で生まれ、1904年に陸軍士官学校を卒業するとアメリカの植民地だったフィリピンに配属され、続いてグアテマラ、メキシコ、再びフィリピン、日本、上海、3度目のフィリピンとアジアと中米を巡る特異な軍暦を重ねていきました。1913年からは陸軍士官学校の国語と歴史学の教官になり、翌年にはスペイン語(フィリピンはスペイン語圏)と近代語学も担当するようになりますが第1次世界大戦勃発時には中立国だったスペインに派遣され、続いて1917年8月にバージニア州の第80旅団に転属し、12月にヨーロッパ派遣アメリカ軍の参謀としてフランスに赴任して諜報活動に従事しました。
第1次世界大戦が終結すると1919年に帰国してアメリカ戦争省(平時の陸海軍省)軍事諜報部の中国語要員に指定され、カリフォルニア大学で(西海岸にはアジア系移民が多い)1年間の語学講習を受けた後、1920年から中国の山西省に道路建設工事の技師長として赴任しました。翌年には陜西省の建設現場に移り、さらに翌年からは満州の奉天、ハルビンとウラジオストックで日本軍のシベリア出兵の諜報活動を展開しました。こうして一度帰国して歩兵の専門教育を受けた後、1926年からは在中国アメリカ陸軍の歩兵部隊の指揮官に就任して日本と満州軍閥の抗争を現地と朝鮮・日本から注視していたのです。1935年には在中国アメリカ大使館の駐在武官と蒋介石総統の国民党軍の参謀長を兼務して2年後に開戦する日支事変に備えましたが、国民党軍の上層部は権力闘争に明け暮れるばかりで将兵の士気は上がらず、大規模な攻勢を仕掛けては失敗の繰り返しでした。
1941年12月に日本が第2次世界大戦に参戦すると翌年2月からはアメリカ陸軍中国・ミャンマー・インド戦域司令官に就任し、イギリス軍と共同で援蒋ルートの確保に努力しますが国民党軍の体たらくは末期症状を呈し始めており、スティルウェル大将は自らアメリカ軍式に訓練する数個師団を要求して実現すると精鋭部隊に育成しています。実際、この部隊の出現は大陸では連戦連勝だった帝国陸軍に衝撃を与えたようです。
その一方で「帝国陸軍が本格的な攻勢に転ずれば人望がない蒋介石総統の国民党軍は崩壊する」とフランクリン・ルーズベルト大統領に報告して帝国陸軍を南方戦線や太平洋諸島に引き出して消耗させる遠大な戦略を提唱しました。
1945年の沖縄戦で6月18日にサイモン・B・バックナー中将が戦死すると上陸軍=第10軍司令官に指名されますが、それは帝国陸軍第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自刃して組織戦闘が終わった6月23日のことでした。
終戦後は西部防衛軍司令官(アメリカから見れば日本は西)を経てカリフォルニア州で第6軍司令官に就任しますが在任7ヶ月で胃癌により他界しました。63歳でした。
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  1. 2019/10/12(土) 14:06:19|
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