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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月18日・「3つの旗の下で戦った兵士」・トルニ大尉の命日

1965年の明日10月18日にフィンランド軍、ナチス・ドイツ軍武装親衛隊、そしてアメリカ軍で多大な戦功・武勲を上げて「3つの旗の下で戦った兵士」と呼ばれた本名=ラウリ・アラン・トルニ大尉、アメリカ人名=ラリー・アラン・ソーン大尉がベトナム戦争で戦死しました。49歳でした。
実は野僧も「2つの旗の下で戦った元自衛官」ですが日本では個人が戦争に参加すると刑法93条の「私戦の予備陰謀」罪に該当するので語ることは控えます。
トルニ大尉=ソーン大尉は1919年に現在はロシア領、当時はフィンランドだったヴィープリ(ロシア名・ヴォボルク)で砂糖工場の小型貨物船の雇われ船長の息子として生まれました。1938年9月に兵役として国防軍に入営すると12月には下士官学校に入校して翌1939年3月に伍長に昇任しました。この年の9月にナチス・ドイツとソ連がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まり、11月30日にはソ連がフィンランドに侵攻して冬戦争=第1次ソ芬戦争が開戦したためトルニ伍長の兵役満了も停止されて軍隊に留まることになり、第4猟兵大隊に配属されると敵の前進停滞と後方遮断を基本とするモッティ戦術の後方への攻撃を担当して現在はロシア領になっているヨーロッパ最大の湖・ラドガ湖畔に展開しました。そうしてソ連軍の包囲殲滅作戦で武勲を上げたため翌1940年2月からは予備士官学校に入校して3月13日までの冬戦争の最終盤には少尉として参戦しています。1941年6月25日に継続戦争=第2次ソ芬戦争が再開するとトルニ少尉は遊激戦中隊の指揮官として再びソ連軍の後方を遮断・撃破する任務を担当して幾多の戦闘で甚大な損害を与えました。このためソ連軍はトルニ少尉に高額の懸賞金を賭けています。
1944年9月19日にソ連とフィンランドの間で停戦協定が締結されると同盟軍として駐留していたナチス・ドイツ軍はフィンランド国外に退去させられることになりましたがトルニ大尉(1944年8月27日に昇任)は脱走して武装親衛隊の支援を受けながら反ソ親ナチのレジスタント活動を開始しました。そうした活躍を見てナチス・ドイツはトルニ大尉ほかの士官を勧誘し、1945年1月にUボートでフィンランドを脱出して武装親衛隊の特殊部隊の士官になり、北欧と東部戦線で戦功を重ねました。
1945年5月8日にナチス・ドイツが敗北するとフィンランドに帰国しますが親ソ政権によって反逆者と断罪され、逮捕・脱走を繰り返しながら海外逃亡に成功し、1950年にアメリカへ渡ってラリー・アラン・ソーンに名前を替え、1953年に正式な定住許可を得ると翌年には反共産主義亡命者をアメリカ軍に受け入れるロッジ・フィルビン法に基づいて陸軍に入営して特殊部隊の創設に貢献しています。その後は特殊部隊の指揮官としてNATOや中東で武勲を上げて数多くの勲章を得ますが、ベトナム戦争での特殊任務のために搭乗していたヘリコプターが当時の南北国境付近で撃墜されたのです。ソーン大尉の遺骸はベトナム戦争後も不明のままでしたが1999年に発見された遺骨が2003年6月23日に本人のものと確認され、アーリントン墓苑に埋葬されました。
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  1. 2019/10/17(木) 13:31:21|
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