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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1712

工藤はジェニファーの産婦人科に付き添っていた。アメリカでは市販の妊娠検査薬で自己確認し、通院するのは8週目に入ってからなのだ。アメリカの産婦人科は「オブストリクス&ガイナコロジー」と呼ばれ、加入している保険会社の契約先から選ぶのが一般的らしい。ジェニファーが選んだのはアフリカ系住民が大半を占める街の医院なので受付係から廊下を歩いている看護師、何よりも患者は全てアフリカ系だ。
独身の工藤は産婦人科に付き添うのは初めてではない。70年安保闘争が激化していた時代に九州から東京の大学に進学したものの学内は学生運動の舞台に過ぎず、同郷の仲間たちも忽ちのうちに飲み込まれていった。学生運動では貞操観念を「保守の倫理」と否定して集会の後には乱交に及ぶことも珍しくなく、そんな中で高校時代の同級生が妊娠したため学内闘争に背を向けてアルバイトに励んでいた工藤が中絶に付き添ったのだ。それも四半世紀前の話になる。
「ダーリン、緊張しないで。リラックス、リラックス」ジェニファーは待合室の席に並んで座っている工藤が何時になく落ち着かない様子でいるのを見て苦笑しながら声をかけた。アメリカでは産婦人科には夫婦同伴が普通なので周囲には男女が混在しているが、やはり若い世代が多く工藤がアフリカ系であればジェニファーの父親に見えるはずだ。工藤自身も日本で言う還暦を過ぎてから父親になるとは思いもよらなかった。
「だってお前は高齢出産になるだろう。心配じゃあないのか」「私は健康面には何も問題がないから年齢だけで高齢者にされるのは納得できないわ」工藤の心配にジェニファーは真顔で反論した。確かにジェニファーは容姿が若いだけでなく肉体も強靭で、抱いていても工藤が30代にアメリカに来てから愛した女性たちのような錯覚に陥ることがある。
「ジェニファー・ビーンズさんですね。検査をしますからこちらに来て下さい」間もなく受付で名前を確認したらしい中年の看護師が呼びに来た。ジェニファーは座ったまま動かない工藤の手を取り、待合室の隅にある測定器材に連れていった。先ずは身長と体重、血圧の測定からだ。検査が終わると看護師は紙コップを手渡しながら指示を与えた。この時、妊娠の確定、尿蛋白の数値、バクテリアの有無などの検査目的を説明するところがアメリカ的だ。
工藤が覚悟を決め、ようやく雰囲気に慣れてきたところでジェニファーが呼ばれた。工藤は入籍していない内縁関係だがジェニファーが受付でパートナー欄に記入したので一緒に診察を受けることになる。日本の産婦人科では夫は待合室に置いて行かれることが多いがアメリカでは立ち合うのが普通のようだ。落ち着いたはずの工藤は再び急激に緊張しながらジェニファーの後について診察室に入った。すると席は2つ用意してあった。
「ジェニファー・ビーンズさんですね」「イエス・サー」医師はアフリカ系の中年男性だった。始めは受付で記入した書類の氏名、年齢、住所、緊急連絡先、保険者番号、社会保険の種類などの身元確認から始まり、最終月経月日と月経期間、妊娠出産の有無、中絶歴、家族を含む既往症、手術歴、アレルギーなどを確認していく。このうち既往症については工藤も確認された。
「先生、尿検査は異常ありません」手順通りの質疑応答に区切りがついたところで先ほどの看護師が補足した。それにしても一切の感情を交えず淡々と手順を進めていくアメリカ式の診察も工藤のように特殊な事情を抱えている者にはかえって安心感がある。大学時代に付き添った日本の産婦人科では2人の関係を根掘り葉掘り訊かれ、中絶の同意書に署名する資格についても長々と講釈を受けたが、相手が判らない子供を身籠った同級生にとって他に選択肢はなく工藤は義侠心で来ているのだからこれは余計な前置きだった。ただし、アメリカの多くの州ではキリスト教の倫理で妊娠中絶が認められていないため手続きと審査は日本以上に厳しい。
「それではウルトラサウンド(超音波)の検査をしますからベッドに横になって下さい」医師の問診が終わると看護師はベッドの奥に置いてある器材の横に立ち声をかけてきた。工藤は立ち合っていないので知らないが、日本では妊婦の羞恥心を和らげるためカーテンで診察用のベッドは仕切られているらしい。ところがアメリカではそのままだ。おまけに医師も立ち上がってジェニファーの下半身の方へ回った。
「それでは下着を取りますよ」看護師は声をかけるとそのままスカートを捲り上げ、下着を脱がして両足を固定用の台に載せた。そこに医師は右手に不思議な形の金属製の器具=クスコを持って性器を覗きこんだ。これは膣を開いて中の子宮口を見る検査だ。それにしてもこの場面を夫に見せることは日本では考えられない。おそらく工藤が若ければ医師とは言え別の男性が自分の妻の性器を見ていることを屈辱に感じたはずだ。
続いて看護師が腹にジェルを塗ってからウルトラサウンドのセンサーを当てて胎嚢(胎児が入っている袋)の存在、子宮外妊娠ではないこと、さらに心臓の拍動を確認した。
  1. 2019/10/23(水) 13:40:10|
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