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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1713

「子供は正常なようですね。お母さんが40歳を過ぎているので次回は血液検査をしましょう」この日の診断手順を終えた医師はジェニファーの感情を害さないように高齢出産への対応を説明した。これは英語では意外に難しい話術だ。
「その検査である程度の胎児の先天的な疾患の可能性が察知できます」「お母さんが加入している保険で補助を受けられますから経費の心配はありませんよ」医師と看護師は医学と生活の両面から検査の受けることを勧める。出生前診断は義務ではないので実際は拒否することもできるのだが、高齢出産の場合は検査を受けることが一般的らしい。
「それで異常が見つかったら・・・」ここで工藤は日本語を呟いてしまった。最近のアメリカでは医学会や女性団体を中心に重篤な障害を持って生まれくることが確実な子供は社会的負担だけでなく本人にとって不幸であるとする「生まれてこない権利」論が支持を集め始めており、これまでの「カミが授けた命を人間が取捨選択することは許されない」とするキリスト教の倫理を席巻しつつある。工藤がそこまで冷静な合理主義に徹し切れないのはこの新たな家族を慈しむ日本人としての情感の残滓なのかも知れない。
「お父さん、何か言いたいことがあれば英語でお願いします」「いいえ、モノローグ(独り言)です」工藤はこの子を産むのはジェニファーであり、60歳を過ぎている自分が育て上げるまで生きていられないことを考えて口を挟むのを控えた。日本人は「生者必滅」と言う佛教的な死生観によって妊娠中絶にも寛容な面がある一方で母親の胎内に宿った瞬間から我が子とする濃密な家族観も共有しているため、障害を持って生まれて来ることを理由に命を絶つことを当然視する前に先天性を与えた者としての責任を感じてしまう。
工藤の答えを聞いて医師は納得し切れない顔をしたが理解不能の言葉だったので妻のジェニファーが通訳しない以上、深入りを避けた。やはりアフリカ系の居住区域にあるこの医院には日本人の妊婦は通院していないようだ。
「これは両親が妊娠と出産に関して学んでおくべき知識を解説した資料です。お母さんだけでなくお父さんも熟読して咄嗟の時にも慌てることなく適切に対応できるようにして下さい」診察に区切りがついたところで看護師が工藤に大量の資料を渡し、医師が説明した。これからは重い荷物を運ぶのは父親の仕事になる。日本では産婦人科で渡されるこの手の資料や妊娠・出産に関する雑誌は母親が読むモノになっているが、アメリカでは共同参画が常識なので工藤も勉強しなければならない。おそらく妊娠後期に受講する日本で言う母親教室に当たる両親教室を含めてラ・マーズ法の本場として出産に立ち合うことを前提にしているのだろう。
「それで質問は先生にすれば良いんですね」工藤としては真面目に勉強すれば当然、疑問が発生するから次回の診察まで放置しておくことはできない。そのための念を押したのだが医師の回答は意外なところでずれていた。
「その時の医師が回答しますから遠慮なくどうぞ」「へッ、別の先生ですか」この医院の規模は日本的に言えば個人経営だ。そこに別に医師が来て診断することは理解できない。
「ダーリン、アメリカの医院では契約している医師が交代で診察しているのよ。だから出産もその時の医師が担当するから診察は全ての医師になるように日付を調整しなければならないの」ジェニファーは以前、医科に通院して担当医が交代することに困惑した倉田と同じ説明を工藤にも繰り返した。日本では個人経営の医院の医師は1人だが、アメリカでは複数の医師が共同出資で建物と職員を確保して、大病院での勤務と並行して診察することが一般的だ。工藤はアメリカに来て30年が経過していても健康体なので長期通院した経験がなかったのだ。ただし、これから高齢化していけばこの子供のためにも医者と友だちになって長生きしなければならない。多くの州の成人年齢18歳を迎える時に工藤は80歳を過ぎている。それでも格好良いダディでいたいものだ。工藤は両手に資料を抱えて立ち上がると日本式に頭を下げようとしたが無理だった。アメリカでは不要な挨拶ではある。
ジェニファーは終日の休暇を取っていたが工藤は日本式に午後から仕事だった。このため地下鉄に乗ってウィクリー・ジャパンの編集室に向かった。アタッシュ・ケースの中には産婦人科でもらった資料が少なからず入っている。それでも暗いトンネルと車内の灯りで鏡になっている窓で自分の顔が弛むのを修正していた。
ニューヨークの地下鉄の車内はまさしく人種のるつぼだ。アメリカでは公民法によって人種差別は否定されているがヨーロッパ系とアフリカ系の人たちは車両を自発的に乗り分けている。ところがアジア系だけは無頓着にどちらにも割り込んでいる。今日の工藤は無意識にヨーロッパ系ではなくアフリカ系の乗客たちの車両に乗っていた。
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  1. 2019/10/24(木) 13:42:15|
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