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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月25日・神風特攻公式第1号・関行男大尉が戦死した。

昭和19年(1944)年の明日10月25日に公式には現在も神風(しんぷう)特別攻撃隊第1号とされている関行男大尉が戦死しました。23歳でした。
最近は戦後の反戦気分による帝国陸海軍への冒涜に疑問を持った若い世代の間で反動的な礼賛が始っており、中でも特別攻撃隊に対しては究極の自己犠牲=殉国としていますが、元幹部自衛官の立場から見れば戦術の邪道としての批判を揺るがすことはできません。
関大尉は大正10(1921)年に愛媛県西条市で古物商を営む両親の1人息子として生まれました。小・中学校時代は長身で美男子、成績抜群のテニス選手で性格温厚と言う女生徒が憧れる条件が揃っていたのですが特に浮いた噂を残すこともなく海軍兵学校へ進学しました。この時、父親は大陸での戦争が長期化する中で1人息子を軍人にすることに難色を示して師範学受験を勧めたのですが、本人は「戦時だからこそ」と海軍兵学校を受験したのです。この父親は関大尉が海軍兵学校在学中に亡くなりました。
第2次世界大戦への参戦直前の昭和16(1941)年11月に海軍兵学校を卒業すると戦艦・比叡に配属された後に水上機母艦・千歳に転属し、そこで鎌倉の医師の娘からの慰問袋を受け取り(個人宛ではなくクジ引きのようなモノだった)、礼状に「横須賀に入校した時に会いましょう」と書いたそうです。ところが実際に会うと付き添ってきた姉の方に一目惚れして昭和19(1944)年1月に霞ヶ浦航空隊の教官に着任したのを機会に同年5月に結婚しました。しかし、戦局悪化の中、同年9月に台南航空隊に転属し、ここで体当り戦法の志願が行われたようです。この志願は本来、1人息子と妻帯者は除外されたのですが、関大尉は両方に該当するにも関わらず志願しました。
こうして部隊がフィリピンに移動すると同時に悪鬼・大西瀧治郎中将が司令官として着任して連合艦隊の死に花・捷1号作戦に呼応して爆装した零式艦上戦闘機による体当たり攻撃を提案して決定させたのです。関大尉は当初、爆装機2機と直掩機1機で編成された敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊には属さない全ての神風特別攻撃隊の指揮官でしたが、敷島隊が先陣を切ることが決まったため全員が下士官だったこともあり隊長を兼務することになったようです。しかし、悪天候が続いて偵察機が敵艦隊を発見して出撃しても遭遇できないで引き返すことが続き、10月24日になって栗田健男中将の艦隊が25日の早朝にレイテ湾に突入することを知った大西中将から出撃命令が出たため7時25分に発進し、途中で反転した栗田艦隊を視認しながらもアメリカ艦隊(栗田艦隊の反転を受けて警戒を解除していた)に突入して多大の損害を与えました。
最近の戦史関係の資料では関大尉が愛妻家であったかのような記述が目立ちますが、関大尉の戦死後に医学部に進学して知り合った医師と再婚した妻は「家庭では自分にまで軍人精神を要求し、武士の妻のような生活を強いた」と告白しながら特別攻撃隊に志願したことを非難しており、それは昭和48(1973)年8月26日に放送された「おこれ!男だ」の敗戦の日特別番組「婆さんが塾に戦争を持ってきた!」で遺品を受け取りに来た塾長の戦友の妻が目の前で遺書を焼き捨てた姿に投影されていました。
  1. 2019/10/24(木) 13:43:19|
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