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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第84回月刊「宗教」講座・2008年の惨劇(前編)

中国政府の公式発表や日本の外務省の公式見解、事件そのものに全く触れない日本を除く海外のマスコミ報道、さらにインターネットの関連記事でも2008年3月10日にチベットの首都・ラサで発生した僧侶の大弾圧=大量虐殺を「暴動」「騒乱」「蜂起」と呼んでいますが、今回は野僧が独自に入手したそれを真っ向から否定する情報を紹介したいと思います。
反共産党中国の立場からチベットにおける人権弾圧を批判している海外のマスコミの報道でもこの事件は1950年に共産党中国の侵略を受けて以来、敬虔な佛教徒として9年にわたり忍従してきたチベット人たちが、ダライ・ラマ14世法王猊下を拉致して秘密裏に殺害する謀略を察知して丸腰で人民解放軍に立ち向かい、インド国境への道を人の楯になって守り、亡命させた1959年の「チベット民族蜂起記念日」から49年目の2008年3月10日に再び決起した暴動・騒乱としています。その決起の矛先がラサ市内で商店を経営する漢民族に向かい、僧侶たちに呼応したチベット人の民衆が店舗を破壊し、商品を奪い、経営者だけでなく幼い子供を含む家族までも暴行した上、残酷に殺害するようになったことで周囲で遠巻きに警戒に当たっていた治安部隊が平和的に鎮圧し、さらに治安部隊と警察当局が本格的に介入して、ラサ市内だけでなくチベット全土の佛教寺院を徹底的に捜査して、反共産党中国の指導者たちを摘発・連行したと言うところまでで紹介・解説は終わっていました。当時の日本は自民党内にも支持基盤を持たない福田康夫政権だったので、政治的指導力を発揮できるはずがなく、対中国外交はまだ健在だったチャイナ・スクールの全面臣従姿勢を黙認していたため、この問題についても完全に無関心でした。そんな中、現在は立憲民主党代表の枝野幸男議員が代表を務めていた「チベット問題を考える議員連盟」が共産党中国による武力弾圧に抗議する声明を発表しましたが、福田内閣は声明文を中国政府に伝達しただけでした。日本のマスコミも半年後に迫っていた北京オリンピックの喧伝に明け暮れるばかりで、それに水を差すような事件は海外のニュースの紹介で軽く触れるだけでした。したがって野僧も「僧侶が暴動を起こした」と言う報道に違和感を覚えただけだったのですが、そこにタイを中心にミャンマーからラオス、カンボジアまでを放浪している南方佛教の僧侶からヒマラヤを水源としてミャンマーを流れる川を小舟で下って逃れてきたチベット僧が事件の実態を詳細に証言した英文の書簡が届いたのです。
その書簡では日本での報道や政府の対応を確認していたので、間もなく入った国際電話で実に情けない現状を説明しましたが、折り返しに「佛教者として日本でも抗議運動を始めて欲しい」と要望する書簡と写真・映像を録画したDVDが届きました。ここからはその書簡の内容に基づく論考になりますが、非英語圏の僧侶が記した英文を読解は苦手な野僧が邦訳しているのでニュアンスの違いはご容赦下さい。
ミャンマーに逃れてきたチベット僧の証言によると事件はラサに取材に来ていたイギリス人のジャーナリストが街で知り合ったチベット僧に「今年、中国共産党は北京オリンピックを成功させることに全力を上げているから国内の人権弾圧を控えるはずだ。来年がチベット決起50周年だが大規模な集会を行うのなら今年の方が良い」と助言を与えたことが発端だそうです。この話をチベット僧が指導的立場にある僧侶に伝えると秘密裏に大抗議集会が計画され、それを独自の伝達方法で全土に発信ししたため3月10日の集会を前にチベット全土から僧侶たちが続々とラサに集まってきました。ところがその中に短髪でチベット僧の法衣は着ていてもあきらかに佛教の作法に反する動作を見せ(平気で腕や足の肌を露出し、視線を前に向けて手を振って歩くなど)、何よりも異民族の顔つきをした多くの若者が含まれていました。その若者たちはラサ市内の僧院には宿泊せず、どこからともなく市内各所で始まった事前集会に姿を現し、遠目から環視しているだけなので集会の成功に集中していたチベット僧たちは身元を確認することはしなかったようです。こうして迎えた当日、ラサ市内の目抜き通りの広い空き地で治安部隊が遠巻きに包囲する中、集会が始まると法衣を着た若者たちは壇上から1950年の人民解放軍の侵攻から1959年の蜂起とダライ・ラマ14世猊下のインドへの亡命、その後の共産党中国による佛教僧院の破壊の歴史を語り、僧侶への弾圧、何よりも市民への搾取を抗議する僧侶たちを冷ややかに見ていましたが、何かの合図を切っ掛けに突如として行動を開始したのです。若者たちは極めて統制が取れた団体行動で足元の石を拾うと、広場に面した漢民族の店舗に向かって投石を始め、指導者と言うよりも指揮官が指示する店舗のウィンドウやドアのガラスと照明を次々に割っていきました。これに店主が出て来て抗議するとこちらにも石を投げ、中に逃げ込むと一斉に駆け寄って店内に乱入し、あらかじめ用意していた(らしい)角材や棍棒で展示してある商品を破壊し始めたのです。その一部始終を外国人のジャーナリストが撮影していましたが治安部隊は傍観しているだけだったようです。
ところがジャーナリストが撮影を終えて広場に戻ってくると突如として治安部隊が動き始め、破壊活動を行った僧侶=若者たちではなく集会に参加していた僧侶と市民を包囲して無差別に暴行を加えながら捕縛していきました。公式には催涙ガスとゴム弾などの治安維持用の器具と警棒による制圧であって殺害は目的にしていないと発表していますが、チベット僧の証言ではゴム弾用の発射器具に硬い弾頭を装填して発射していたため重傷者が続出し、金属製の警棒で殴打され、殴る蹴るの暴行を受けた負傷者と共に治安部隊の衛生兵が救護したのですが、野僧が入手した動画では傷口に薬品を塗布すると間もなく様態が急変し、悶絶して動かなくなるのを待っていた軍医が死亡を宣告し、兵士が流れ作業で治安部隊のトラックの荷台に投げ込む様子が遠距離で不鮮明でしたが撮影されていました(撮影者の英語の実況中継が入っていたので起こっている事態は判りました)。ところがその間に暴動を起こした僧侶=若者たちは姿を消しており、その後はラサ市内の通りを移動しながら漢民族の店舗を破壊した上で暴行と殺害を繰り広げ、それを外国人のジャーリストが撮影する異常な惨劇が展開していきました。
4日後にはどこから現れたのか治安部隊が大幅に増員されていて、「佛教僧が暴動を首謀した」と言う共産党中国政府の公式発表を根拠にして全土の僧院に踏み込み、僧侶たちを拘禁した上で1人ずつ取り調べ始めました。しかし、その取り調べは北京語での尋問に上手く受け答えられないだけで「北京語教育を拒否してきた=反共産党中国の活動家」と断定する滅茶苦茶なものだったようです。治安部隊はそうして割り出した危険人物たちを僧院内の書棚が並んでいて狭く天井近くに採光用の小窓しかない経典の収蔵庫=経蔵に押し込んでおいて着火したガス弾を多数投げ込んで窒息死させたそうです(これは伝聞情報だった)。さらに治安部隊は殺害した僧侶たちの遺骸をトラックに積んで市街地から遠く外れた荒野に運び、そこに山積みにした上で油をまいて焼却処理し、遺骨は市民や登山者が通らない深い谷底に投棄したと言います。当初はラサ市内の広場で火葬し、市民に僧侶たちがチベット佛教が説く肉体を鳥や獣に施す最期の功徳さえも積むことなく葬り去られたことを見せつける予定でしたが、動画や画像を撮影した携帯電話が押収されたため海外への流出を懼れ、秘密裏に証拠を隠滅したようです。1989年6月4日に発生した第2次天安門事件でも海外マスコミがいなかった長安大街通りで繰り広げられた武力弾圧で殺害した若者たちの遺骸は人民解放軍がトラックに山積みにして北京市内の焼却場に運び、ゴミと一緒に焼却処理したと言われますから共産党中国の隠蔽処理にはマニュアルがあるのかも知れません。
こうしたチベット内での武力弾圧=大量虐殺とは別に共産党中国はチベット民衆のダライ・ラマ14世猊下からの心理的離反を画策しました。海外のマスコミはチベットでの虐殺を当初は「平和的な抗議運動」と発表していた共産党中国が一転して「僧侶に扇動された民衆による暴動」「多くの漢民族が犠牲になった」と訂正し、唯一、現地に入っていたイギリス人ジャーナリストも「私が見たのは計画的で特定の民族を標的とした暴力であり、その対象とされた民族はラサで最も人口が多い漢民族と回教徒であった」と自分が撮影した画像や動画と共に証言したため、治安部隊による武力弾圧を非難していた国際世論も一転してインドのチベット亡命政府に矛先を転じ、アメリカを訪問したダライ・ラマ14世猊下が地元マスコミからの取材に「亡命政府の融和政策に不満を持つ一部の若者たちが暴走した可能性」を示したことを「ダライ・ラマ14世も暴動を認めた」と中国内外、特にチベット内で大々的に喧伝したのです。その後、海外の一部のマスコミが人民解放軍の兵士がチベット僧に変装している写真を取り上げましたが、共産党中国はこれも即座に「映画の一部だ」と否定しました。しかし、長年にわたって自衛隊で隊員の教育訓練に当たってきた野僧が見た破壊活動を行う僧侶に扮した若者たちの行動は指揮官の命令に厳正・機敏に反応し、常に周囲を警戒しながら迅速に攻撃する軍隊の行動原理そのものであり、破壊や殺害で見せた動作も軍事訓練のままですから、徴兵の対象になっていないチベット人の僧侶ではなく人民解放軍の兵士の変装と考えて間違いありません。
「チベット僧の証言の方が事実である」と確信した野僧は「在日スリランカ佛教協会会員」の肩書で日本国内の各宗派の宗務所長と本山の貫主宛てにチベットで行われている佛教僧への弾圧の実態を説明し、抗議運動の開始を要望する書簡を送り、それが届いた頃を見計らって次々に電話を掛けたのですが、権威主義に凝り固まった日本の佛教界が野僧如きを相手にするはずがなく、タイやスリランカ、軍政下にあったミャンマーの佛教界まで抗議に立ち上がる中で完全に取り残されたのです。当然、新聞社やテレビ局への情報提供も無視されました。唯一、真言宗の一部の寺院の僧侶たちがチベット密教に共鳴する立場から抗議活動=署名運動を始めましたが、マスコミは完全に黙殺しました。
そんな失意と焦燥の中、野僧は北京オリンピックの聖火リレーが前回の冬季オリンピックの開催地である長野の善光寺がスタート地点になることを知り、行動を開始しました。善光寺は天台宗と浄土宗が交代で住職を務めていることを利用し、浄土宗の管長であった師僧の許可を得た上で「猊下の弟子」と名乗って善光寺に電話をしました。ところが寺務責任者は「この機会に中国からの観光客を誘致したい」「県や市から協力要請を受けている」と事態を全く理解せずに拒否したのです。そこで善光寺内の他の部署に電話を掛けまくり、応対した若い僧侶たちに趣旨を説明して賛同を呼び掛けた上で送られてきた動画のDVDを郵送したところ、彼らは重役たちを突き上げて、聖火のスタート地点を辞退=拒否が実現しました(「善光寺決起」と自称していた)。尤も、この頃になると辞退を要求する電話が殺到するようになっていたようです。
さらに野僧は1963年6月11日にベトナムで熱心なクリスチャンだったゴ・ディン・ジエム首相による佛教弾圧に抗議してティック・クアン・ドック師が端坐のままガソリンをかぶって焼身遷化したことに倣って福岡市にある中国領事館の前で焼身することを計画しましたが、在来線に新幹線、地下鉄を乗り継ぐだけの旅費が工面できず、移動に耐えられる健康状態ではなかったため無念の歯噛みで前歯2本が抜けただけでした(抜けたのは栄養失調が原因)。それでも連絡してきた南方佛教の僧侶は「善光寺の聖火リレーのスタート拒否と長野市内に押しかけた在日中国人の抗議活動の様子をニュースで見た」と野僧の活動を賞賛してくれたのでさざ波くらいは起こせたのかも知れません。
その後もチベットでは僧侶による抗議の焼身遷化が2009年4月から2015年4月までだけでも143人も続発していますが、中国政府はこれを放火テロと説明し、本人以外に被害がないにも関わらず海外のマスコミも同調しており、日本に至っては報道もしていません。
これも日本ではほとんど報道されていませんが、共産党中国は佛教だけでなくチベット民族の抹殺も進めており、「民族浄化」の名の下に人民解放軍の兵士が生理が始まったチベット人の少女を強姦し、その後も慰安婦として性行為を強要して、妊娠させるとパイプ・カットさせた男性と結婚させているそうです。チベットにも共産党中国の「1人っ子政策」は適用されていたため純粋なチベット人は急激に減少し、ラサ市内の若い世代では消滅に限りなく近づいています(来月の後編に続く)。
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  1. 2019/11/01(金) 11:16:34|
  2. 月刊「宗教」講座
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