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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月9日・西郷南洲・山岡鉄舟の会見

1868(慶応4)年の明日3月9日に駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷南洲さんと山岡鉄太郎(後の鉄舟)さんが会見し、実質的に江戸の無血開城が決まりました。
ただ、山岡さんは勝海舟に派遣された使者であって交渉の全権は与えられておらず、この4日後に江戸・品川の薩摩藩邸で行われた西郷さんと勝海舟さんの会見で最終決定したと言う評価もあります。
小説などでは出発する山岡さんに海舟さんが「西郷は人間不信なところがある男だ。真実一路の貴公なら心を開かせることができるかも知れない」と言う場面が描かれていますが、実際の会見もそのようになったようです。
薩長の本営では銃を持った先鋒隊がズラリと並ぶ中を山岡さんは「朝敵徳川慶喜が家来・山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で宣告して、圧倒されて身動きできないでいる兵たちの前をスタスタと通り抜ける情景も小説やドラマの定番です。
そして西郷さんとの会見では将軍・慶喜が恭順の意を示して上野・寛永寺に謹慎していることを伝え、西郷さんが討幕軍側からの降服の5条件「江戸城の明け渡し」「城中の人間(大奥を含む)を向島へ移す」「武器を引き渡す」「軍艦を引き渡す」「慶喜を備前(岡山)へ預ける」が示されました。
山岡さんは本来、交渉する権限を委任されていなかったのですが、そこは西郷さんと意が通じていることを感じ取り、「最後の一条だけは承服できない」と答えました。
すると西郷さんは「恭順とはいかなる命にも従うことではないのか」と声を荒げましたが、山岡さんは「若し、立場が逆で島津公が恭順・謹慎しているのに、追討軍が主君の身柄を他所へ預けよと命じたなら先生はそれに従いますか?」「武士には武士の礼節があり、それを忘れたならただの人斬りに過ぎません」と訴え、西郷さんも納得し「きっと御取り計らい致します」と応じたようです。そして手形(通行許可証)を与えて送り出しました。
その頃、勝海舟さんは江戸城内でいきり立つ幕臣をなだめ、ヒステリーを起こす大奥をしずめ、逃亡しようとする軍艦を引き留めるのに大変だったようです。
何せ長州征伐で惨敗したのは西国諸藩であり、続く鳥羽伏見で敗れたのは会津、桑名藩であって江戸にいた幕臣は未だ戦っておらず、圧倒的な薩長土肥の戦力、特に近代兵器の威力は体験していないのですから仕方ありません。一方、大奥では老女(役付き)や女中たちに暇を与えた途端、金品を持ち出す者が後を絶たなかったようです。
榎本武揚の軍艦は慶喜が水戸へ到着したのを確認してから北海道へ逃亡しましたが、もう少し早く日本海側へ入っていれば河井継之助が指揮する越後・長岡の戦いも違った結果になっていたかも知れません。
  1. 2013/03/08(金) 09:16:43|
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