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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月3日・「日本のパドリオ」になり損なった小磯國昭大将の命日

昭和25(1950)年の11月3日は独裁者・ムッソリーニ首相を追い落としてイタリアを早期に降伏させたパドリオ元帥とは違い東條英機首相を辞職に追い込みながら何もできず、敗戦後はA級戦犯として終身禁固刑の判決を受けた小磯國昭大将の命日です。
小磯大将は明治13(1880)年に警察署長だった父親の勤務地・栃木県宇都宮市で生まれましたが、本来は野僧と同じ山形県の新庄藩の出自で旧制・山形中学校を卒業して陸軍士官学校に入っています。卒業後は新潟県村松に駐屯していた歩兵第30連隊に配属されて中尉で日露戦争に参戦し、戦争中に大尉に昇任して終戦後には中隊長になりました。
明治43(1910)年に陸軍大学校に入校しますが卒業序列は55人中33位と揮わず、通常であれば大将になる可能性は低かったのですが、陸軍大臣として大規模な軍縮を断行したことで逆に陸軍内の生殺与奪権を握っていた宇垣一成大将に気に入られたことで運気が上昇に転じたのです。小磯大将(当時は少将)は陸軍士官学校と陸軍大学校の同期の杉山元元帥や二宮治重中将、畑俊六元帥と共に側近として頭角を表しましたが、軍縮によって国民の支持を集め、宮中の信頼も厚かった宇垣大将を首班とする軍事政権の樹立を目指したクーデター計画・3月事件(5.15事件や2.26事件とは違い民衆蜂起による無血クーデターの予定だった)が発覚したことで反宇垣である尊皇的精神主義者=後の皇道派が実権を握ったため関与を疑われた小磯大将は関東軍参謀長に追われてしまいました。
陸軍大臣に就任した皇道派の首魁・荒木貞夫大将は常軌を逸した人事を強行して首都圏をクーデターの危険に晒し、実際に昭和8(1933)年に5.15事件、昭和11(1936)年には2.26事件が起こったため皇道派は陸軍中央から排除されたのですが、中央から遠ざけられていた小磯大将の復帰は叶わず、朝鮮軍司令官に在任中の昭和12(1937)年に大将に昇任しただけで昭和13(1938)年には予備役に編入されています。ところが昭和14(1939)年の平沼騏一郎内閣と翌年の米内光政内閣で外地の統治と南満州鉄道の経営などを担当する拓務大臣に指名されたことで陸軍よりも政界で名を売り、第2次世界大戦参戦後の昭和17年には朝鮮総督に就任しました。朝鮮総督としては前任者の南次郎大将が進めた皇民化政策をさらに具体化して朝鮮領内の官公庁の官吏に朝鮮人を補職するのと同時に徴兵も実施しています。
しかし、当時の内閣総理大臣の東條英機大将(陸軍士官学校と陸軍大学校の5年後輩)はナチス・ドイツやイタリアを模倣した独裁的体制を画策したため陸海軍内で反発の声が起こり、秘かに動き始めた倒閣運動に賛同して、サイパン島陥落によって東條内閣が辞任に追い込まれると後任として首相に就任したのです。
ところが小磯首相は現役ではなかったため大本営などへの立ち入りを制限され、作戦会議にも出席できず、東條首相よりも政治の統制力は低下してかえって混乱を深刻化させる結果を招きました。これに対して小磯首相は現役復帰に執着するばかりで有効な手を打たないまま昭和20(1945)年4月7日に鈴木貫太郎海軍大将と交代しました。A級戦犯に指定された告発事由は開戦責任ではなく満州事変の容認と前述の朝鮮統治に関するものでした、
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  1. 2019/11/03(日) 12:48:50|
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