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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月4日・本物の庶民派町奉行・根岸鎮衛の命日

文化12(1815)年の11月4日(太陰暦)に南町奉行・根岸鎮衛(「しずもり」若しくは「やすもり」)さんが当時としては高齢の78歳で在任中に亡くなりました。
時代劇で町奉行と言えば「大岡越前」=大岡忠相さんと「遠山の金さん」=遠山景元さんが双璧ですが、大岡さんは享保2(1717)年から元文元(1736)年まで19年間南町奉行を務めたものの遠山さんは天保11(1840)年から14(1843)年に北町奉行を3年間、弘化2(1845)年から嘉永5(1852)年に南町奉行を7年間の計10年間務めただけで、どちらも幕政の中枢で辣腕を揮っていたのでドラマのように庶民生活に通じるだけの余裕があったのかは疑問です。ところが根岸さんは本当の庶民派で、実際、佐渡奉行時代から亡くなる直前まで書き溜めた全10巻1000編に及ぶ随聞記「耳袋(=耳嚢)」を残していますが、対話の相手=噂話の出処は高位の幕閣から江戸の町人層まで幅広く、本当の庶民派であったことの根拠になっています。
そんな根岸さんは大岡さんが南町奉行を退任して寺社奉行に栄転した元文元年に下級旗本・安生家の3男として生まれたことになっていますが、20歳の時に当主が子供のないまま病気重篤に陥っていた旗本の根岸家の高額の株を買って末期養子に入っていることやそれまでの行状が不明であることなどから、豪商や富農が放蕩息子を武家にするため安生家にも礼金を出して子供にしてもらったとする説もあります(ただし、安生家の墓所にも墓碑がある)。そのため遠山さんの桜吹雪の入れ墨は若い頃、家出していた頃に喧嘩で脅しを掛けるため腕に少しだけ彫っていたとする風説ですが、根岸さんについては養子に入る前は火消の雇われ人足で下帯(巻き込み式の褌)と半纏以外は身につけない臥煙(がえん)だったため全身に彫っていたとする当時の噂が伝承されています。
当主が死亡して家督を相続した根岸さんはいきなり勘定所の御勘定と言う中堅幕吏に昇任し、5年後には評定所の留役、その5年後には勘定組頭へと頭角を表し、10年後には勘定吟味役として幕閣に加えられ、布衣(ほい)と言う正装の着用が許されました。しかし、当時の幕府の固定化した組織内で昇進するためには有力者たちへ献上金が必要不可欠だったはずなのでこの辺りも豪商・富農の息子説の根拠になっているのでしょう。
勘定吟味役としては各地の土木工事で実績を上げ、天明3(1783)年の浅間山の大噴火では現地調査と復興事業を担当した功績で佐渡奉行に抜擢され、田沼意次さまの失脚後に政権を握った松平定信さんの目に止まり、天明7(1787)年には勘定奉行、寛政10(1798)年からは南町奉行に就任して亡くなるまで18年間務めています。
町奉行としての根岸さんは大岡さんが策定し、当時は刑法と判例として確立していた「公事御定書」を厳守するだけでなく、被告人が否定していても証人の証言と客観的証拠によって処罰を加えるなど実務者としての判断を優先することもありました。その一方で幅広過ぎる人脈から裁判に手心を加えるように頼まれると「ワシは高齢だから忘れてしまうことが多い。その時は許せ」と答えて実際は無視していたようです。
おしむらくは小説には何度も取り上げられていても映画やドラマにはなっていません。
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  1. 2019/11/04(月) 12:48:30|
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