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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1725

松山千秋3佐は演習に行っている時以外は駐屯地業務隊の厚生班で勤務している妻の松山裕美2曹と一緒に通勤している。運転は松山2曹の担当だ。これは常日勤である駐屯地業務隊の松山2曹の方が運転する機会が多く、運転席の調整をする手間を省くことと事故を起こして社会的責任を問われる事態になった時、3佐よりも2曹の方が軽くてすむと言う計算が働いている。しかし、普通の夫であれば亭主の沽券を誇示するため妻に操縦を任せたりはしないだろう。
「貴方、何かあったの」「何かとは何だ」他人が聞けば気分を害してしまう無愛想な夫の口調だが妻にとっては聞き慣れた日常会話だ。
「だっていつも以上に不機嫌そうなんだもん。何か考えごとしてるんでしょ」この夫が頭を働かすのは感覚ではあしらい切れない重い問題を抱えている時に限る。最近は曹侯補士の退職への対応を思案しているようだったが、それも序々に軽くなってきていた。
「東京に出張を命じられたんだ」「東京って幕(ばく)」「そうだ」今日の中隊長等会同で松山3佐は連隊長に引き留められ、出席者が退室した後に2人だけで密談をした。始めは会議の席での発言・態度を叱責されるのかと思っていたが用件は全く違った。それは東京への出張であり、8月に交代したばかりの陸上幕僚長と陸幕防衛部長に面会すると言う完全に想定外の目的だった。しかし、現職自衛官の妻とは言えこの特別命令を漏らすことはできない。
「東京ではモリヤ中隊長に会うんでしょ」「うん、折角の機会だから現状を説明して対応を相談してこよう」陸曹である妻にとってこの時期の陸上幕僚監部への出張は、曹侯補士の問題を守山時代の上司であった弁護士のモリヤ2佐に相談することと推察するしかなかった。
「モリヤ2佐かァ。奥さんは1佐なのよね」「通信学校の副校長だったよな」「違うわよ。香川地方協力本部長に転属したわ」常人を超えた頭脳の持ち主の松山3佐とは言え全ての情報を網羅している訳ではない。特に自分が疎外されている人事情報には関心が薄く、部内紙・朝風などに掲載されている昇任や転属に関する膨大な記事を念入りに目を通す気は毛頭ない。その点、松山2曹は普通の隊員程度に興味を持って熟読しているようだ。
松山3佐が松山2曹に出会ったのは2尉で富士学校での幹部上級課程(AOC)を終えた頃だった。その頃、モリヤ夫婦は転出していたので妻に面識はなかった。
「松山2尉、愛知地連(地方連絡部・当時)の説明会に出てくれ」年度末にAOCを終えて帰隊した松山2尉が留守中に訓練幹部代行の2小隊長が作成した今年度の報告と来年度の計画を確認していると中隊長が声を掛けてきた。2小隊長は他の中隊の訓練係陸曹から3尉候補者で任官したベテランなので自衛隊の常識としては完璧な文書だが面白くも何ともない。松山2尉としては独自色を加えた計画に書き直そうとしていたところだった。
「僕は来年度の訓演(訓練演習計画)と業計(業務計画)を作成しなければなりませんから時間がありません」今回も上官の命令は絶対の陸上自衛隊では有り得ない拒絶を返されて部内出身の中隊長は不快そうな顔をしたが、ここはなだめるしかない。
「部外幹候の説明会で講師として体験談を語って欲しいと言うことだ。バブルが弾けて最近は大学生の間でも自衛隊人気が起こっているらしいから優秀な人材を確保するために東京6大学卒の君にお出ましを願うことにしたんだろう」中隊長としてはこの変人には無駄とは判っていても先ずは持ち上げることにしたらしい。すると松山2尉も少し興味を抱いた。松山2尉が入隊したのはバブルの狂乱景気が弾けた直後だったが、それでも阪神淡路大震災での活躍で自衛隊の人気が高まり始めていた。しかし、前川原の幹部候補生学校に集っていたのは名前くらい知っている地方大学出身者が大半で、同じW稲田大学卒と称する同期もいたが通信課程の自衛官、いわゆる部内部外ばかりだった。その後、後輩に当たる一般(部外)課程には国立大学や有名私立大学出身者が続々と入隊してきて防衛大学校出身者を凌駕していると聞いている。だから愛知県での募集状況に興味が湧いてきたのだ。考えてみれば新米の3尉として幹部自衛官のイロハを学ぶ羽目になったモリヤ1尉も愛知のローカル私立大学中退だったはずだ。
「判りました。業計は中隊内の文書ですから決済が1日遅れても問題ないでしょう」「そのままで好いよ。松山2尉が入校中の作成段階に相談を受けているから私との合作みたいなものだ」中隊長は2曹から部内幹部候補生に入校しているため訓練係陸曹の熟練した仕事には敬意を植えつけられており、むしろ教育を受けているようなところがある。
「それで説明会は駐屯地であるんですか」「いや、地連本部の会議室だそうだ。やはり思想傾向が判らない大学生を駐屯地に徘徊させることは避けたんだろう」通常の企業の募集説明会であれば参加者に社内の雰囲気を感じてもらことを考えるはずだが、長年にわたる学生運動で敵視され続けてきた陸上自衛隊の閉鎖性は志願予定者にも向いているようだ。
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  1. 2019/11/05(火) 12:15:43|
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