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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1728

「ご苦労さまでした。時間が大幅に過ぎているから急いでくれ」「終礼には間に合わないかも知れませんからこちらから電話を入れておきます」講話を終えた松山2尉は廊下で痺れを切らしていた地連本部の1尉と1曹に連れられてエレベーターに乗り込んだ。愛知地方連絡部本部は広くて異常に交通量が多い名古屋市の中央部の中区にあり、東端にある守山駐屯地まで戻るにはどう足掻い(あがい)ても終礼には間に合わない。
「本部長ヘの挨拶は」「その点は大丈夫だよ」松山2尉にしては珍しく自衛隊の常識の心配をすると1尉が微笑んだ。そこでエレベーターは1階に着いてドアが開いた。するとロビーに1等陸佐の本部長が待っていた。本部長がニコヤカに右手を差し出したので軽く握手をした。
「松山2尉、素晴らしい講話だったそうだね。どうも有り難う。遅くなったから急いでくれたまえ」流石に地方連絡部の対応は柔軟で行き届いている。担当者が松山2尉の講話が長引き、先を急ぐことを説明すると本部長自らロビーで待っていてくれたのだ。同じ階級の連隊長にこのような対応を期待するのは無理な相談だろう。
終礼が疾(と)っくに終わった後に連隊に戻った松山2尉はそれでも待っていた中隊長に概要を報告してから帰宅した。明日は1科長との3者面談で報告することになった。こうなると駐屯地の夕食は終わっており、売店の食堂も料理は品切れだ。仕方ないので自動販売機コーナーでカップ・ラーメンを買って帰り、飯を炊いて夕食にすることにした。
「松山2尉、すみません」その時、玄関のチャイムが鳴り、聞き覚えがない女性の声が聞こえてきた。この官舎はかつてモリヤ1尉夫婦が入っていた陸曹家族と独身幹部用なので奥さんが連絡事項を伝えに来ても不思議はないが年齢は若そうだ。
「はい、今、開けます」松山2尉は今湧いた薬缶のお湯をカップ・ラーメンに注ぐと玄関に行ってドアを開けた。すると制服を着たWACの士長が立っていた。
「君は今日の講話を聞いていた・・・」「地連本部の中村士長です」その士長は大学生たちが並んだ会議室の最後方の席に座って一生懸命に講話の内容をメモしていた。松山2尉としては部内部外を受験するWACかとも思ったが大卒にしては年齢が若いので謎だった。
「実は松山2尉のアタッシュ・ケースが控室に残っていたのでお届けに上がりました」そう言って中村士長は右手に提げていたアタッシュ・ケースを差し出した。どうやら帰りに寄らなかった控室にアタッシュ・ケースを忘れて来たようだ。アタッシュ・ケースはソファーの影に立てて置いていたので出発前にドアから確認した隊員は気づかなかったのだろう。要するに後から発見して守山駐屯地に帰る中村士長が配達を命ぜられたと言うことだ。
「どうも有り難う。中隊に届けてくれれば良かったのに」「いいえ、松山2尉のことですからお勉強の資料が詰まっているのかと思いまして駐屯地に帰る前に寄りました」アタッシュ・ケースを受け取りながら労をねぎらうと中村士長は何故か恥ずかしそうに事情を説明した。しかし、それほど緊急性がある荷物であればこちらから地連本部に連絡するはずなので推理は少し空回りしている。その時、中村士長の鼻がヒクヒクと動いた。
「カップ・ラーメンの匂いがしますね。夕食ですか」「うん、待っていた中隊長に捕まって食堂で食べ損なったんだ」松山2尉の説明を聞いて中村士長は真顔で考え込んだ。そして重大な決断をした目になって話を切り出した。
「これから私が作ります。ウチの仕事で食事を逃されたんですから責任を取らせて下さい」自炊をしていない松山2尉の冷蔵庫にも青物野菜と卵、ベーコンとウィンナーくらいは入っている。しかし、このWACに責任を取らせる道理がない。松山2尉は困った顔を作って首を振った。
「君の門限は何時だい。ここに寄っただけでも帰隊時間を浪費したんだろう。今夜は帰りなさい」松山2尉は自分に不似合いな生活指導を始めたことに腹の中で呆れていた。大学時代、同じ政治経済学部の女子学生たちは野心家揃いで政治家の秘書を目指して同級生には目もくれなかった。別の学部の女子学生たちも大学のブランドを最高値で売ることに執着していて学内エリートの政治経済学部でも政界・財界に人脈を持つ有望株の学生を選んで交際していた。したがって松山2尉は童貞ではないものの女性とは疎遠なまま独身生活を続けているのだ。
「松山2尉の官舎に寄ることはWAC当直に言ってありますから点呼までに帰れば大丈夫です」中村士長は松山2尉が不得手とする銃剣道の連続刺突で一本を取ると靴を脱いで上がってしまった。勿論、この部屋に女性が上がってのは初めてだ。
「わァ、散らかってますねェ。曹士の営内班じゃあ許されませんよ」台所に向かって歩きながら中村士長は部屋を見回して呆れたような声を出した。これでも松山2尉は自衛隊に入って整理整頓が身についたのだ。思いがけず今夜は女性の手料理を食べることができた。
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  1. 2019/11/08(金) 11:26:36|
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