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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月9日・下関市とマスコミの犠牲者・高杉雅(まさ)の命日

大政奉還から55年が経過した大正11(1922)年の11月9日は幕末に暗躍した稀代のテロリストである高杉晋作さんの正妻・雅さんの命日です。77歳でした。
民放に限らず国営放送の大河ドラマでも高杉晋作さんの最期の枕元には芸者を身請けして妾にした谷うのさんが寄り添っていたように描きますが、実際は萩から現在の下関市に駆けつけた雅さんと1人息子、父親の小忠太さんや山縣狂介などが看取りました。
晋作さんと雅さんの縁談は亡国のアジテーター・吉田寅次郎が処刑されて怒り狂っている危険分子を問題視した毛利藩上層部と30歳までの独身を宣言した1人息子を心配していた小忠太さんが協議した結果でした。しかし、雅さんは当時のミス毛利藩として評判の美女だった上、山口町奉行を務めていた500石取りの中堅藩士・井上家の娘であり、(当時としては)適齢期の15歳になるのを待っていたかのように縁談の申し込みも殺到していて、山口県の伝承では父親がくじを引かせて晋作さんが当たったことになっていますが、200石取りの高杉家との家格の違いを考え合わせると晋作さんの激情を抑えるために最高の妻を娶せることを優先した藩上層部の画策があったように思われます。
それが成功したようで結婚後、晋作さんは雅さんを熱愛し、旅先から小まめに書状を送っていますが「お前は美人だから他の男が放っておかない。絶対に着飾って街中を出歩いてはならない」などと釘を刺す便りも残っています(苦笑)。また、趣味として和歌を勧めたり、読書するように本を送ったりと常に気を配り、江戸で藩からの出張旅費を受け取るとその金で流行の反物を購入して「江戸にもお前ほどの美人はいない。江戸の女よりも似合うはずだ」との書状を添えて届けています。さらに長崎では雅さんの「写真を毎日見て無事を祈りたい」との申し出に応えて現在も残る数多くの写真を撮って送りました。
とは言え晋作さんが萩に帰って一緒に過ごした時間は短く、明治になって幕末の英雄にされた晋作さんの思い出話を聞かれても雅さんに答えられることは余りなかったそうです。その一方で雅さんは早くに妻を亡くしていた義父の身の回りの世話をしながら家庭を守り、何よりも晋作さんとの間に1人息子を儲け、立派に育て上げていますから幕末の暴徒たちの妻としては土佐勤皇党の武市半平太さんの妻・富子さんと並ぶ良妻でしょう。
ところが下関市では観光客誘致するための名所として晋作さんの死没後、谷さんが尼僧として守った東行庵に市営の資料館を建てて売り出しており、東行庵の兼務住職(曹洞宗)も下関市に同調して資料館が高杉家から一時的に借り受けていた晋作さんの遺品を略奪しようと民事訴訟まで起こしています(東行庵側が全面敗訴した)。そして何よりも東行庵で客寄せに開催している慰霊祭(=下関市としては宗教儀礼の佛式法要には関与できない)に福岡市在住の子孫を招待していますが、祖先の正妻を悩ませた妾宅に呼びつけられる屈辱と苦痛に思いが至らないのです。
晋作さんが死亡した時、雅さんは20歳でしたが、「再婚せずに高杉家を守って欲しい」と言う遺言を守って生涯独身で1人息子を育て上げたのです。谷さんの影に追いやられてきた雅さんには「薄幸」と言うイメージがつきまといますが、それは史実の歪曲でしょう。
高杉雅みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より・高杉雅さん
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  1. 2019/11/09(土) 13:07:39|
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