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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1732

「松山2尉の期って今度の7月1日付で1尉に昇任するんでしょう」あれから毎週のように官舎の掃除と食事の支度に通うになっている中村士長は自分で作った昼食を食べながらどこで仕入れてきたのか判らない人事情報を披露した。防衛大学校と一般(部内)出身のA幹部は1尉までは一斉昇任なので地連本部でも募集した隊員の事後情報が流れたのかも知れない。
「・・・多分な」松山2尉は素っ気なく答えて好物の茄子の味噌汁を飲んだ。最近は茶碗と汁椀、箸と湯呑に皿や小鉢と少しずつ食器が増えて料理も本格化してきている。これでは通い妻のようだが実際は手にも触れていない。
「それじゃあ戦闘服と外被(がいひ)の階級章を付け替えさせて下さい。3佐になるまでは私の仕事が残りますから」「いいよ、売店のミシン屋の小母ちゃんにやってもらうから」松山2尉はこの若く魅力的な中村士長が物心ついた頃から女性にもてたことがない自分に明らかに好意を抱いてくれていることが理解できなかった。若い娘の気紛れだとすれば去られた後に思い出が残るのは決して愉快なことではない。
「次の演習は6月29日の金曜日まででしょう。夕方に中隊へ取りに行きますから当直に預けておい下さい。1日の日曜日に届けますよ」「それは拙いよ。当直陸曹に変な疑いを持たれてしまうじゃあないか」「だったら官舎に取りに寄りますから洗濯しないで下さい」先ほど断ったことは無視して話が決まって行く。考えてみれば中村士長が何かを要求したのは初めてではないか。それが階級章の付け替え作業とは呆れるよりも愛おしさが胸に一粒湧いた。
「それじゃあ俺がWAC隊舎に持って行って当直に預けよう。それなら間違いないだろう」この提案は困らせ、諦めさせるための意地悪だ。中村士長も他のWACに自分と親密なことを知られたくはないはずだ。しかし、本人は安心したように笑うと想定外の返事をした。
「それなら大丈夫ですね。それでお願いします」「へッ・・・」これは最近、インターネットで見た極真会館空手の大技でも回し蹴りから後ろ回し蹴りへの連続攻撃のようだ。完全にノックアウト=「一本」を取られた。
6月30日の土曜日、中村士長は朝からWAC隊舎の自習室の机の電気スタンドの明りで作業外被の襟の階級章を付け替えていた。防水加工してある作業外被は洗濯ができず、洗い場のブラシで擦って演習場での泥を落としただけだ。そのため最近は鼻が慣れてきている松山2尉の体臭が残っているが、預けられたWAC当直は汚物扱いしていた。
「中村士長、乾燥室に男物の2尉の迷彩服を干したのアンタでしょう」突然、ドアが開いて師団司令部で勤務しているWACの陸曹が声をかけてきた。
「WAC隊舎に男物の衣類を持ち込むのは好くないからすぐに本人に返しなさい」陸曹は厳しい口調で命令を下した。駐屯地の服務規則やWAC限定の生活指導に男子隊員の衣類の持ち込みを禁ずる項目はないが、そのような前例を作れば男子隊員と交際しているWACたちが真似をすることは想像に難くない。何よりも半ばお局さま化している陸曹にとっては女性の下着が干してある乾燥室に男性の衣類が混在していることが生理的に我慢ならないのだろう。
「はい、今からアイロンで乾かしますからお願いします」「あの戦闘服には35普連・4中・松山って名札が縫い付けてあるから35普連の松山2尉の物でしょう。どうしてアンタが洗濯を頼まれたのよ」どうやらこの陸曹も松山2尉には嫌悪感を抱いているらしい。確かに見た目はネクラそうで口調は理屈っぽく、話題は難解で女性に好かれる要素は見当たらない。
「アイツは独身の幹部でも人づき合いしないからリッチなはずね。上手く貢くんにするつもりなの」「いいえ、外国の専門書を買い集めているからお金はあまりないみたいですよ」中村士長の反論に陸曹は呆気にとられた後、口の中で苦虫数匹を噛み潰した。
「WAC用のアイロンをアイツの作業服に触れさせるのは禁止よ。持っていけないなら屋上にでも干しておきなさい。今日の天気なら半日で乾くわ」「はい、判りました」中村士長の素直な返事を聞いて陸曹は教場のドアを閉めた。WAC隊舎の屋上にも「ぶっかんば」と呼んでいる物干場はあるが風で下着などが飛んだ時の混乱を考慮して使用していない。中村士長は電気スタンドを消すと他のWACの目につかないように畳んだ作業外被を紙袋に入れて裁縫道具を上に載せ、教場を出ていった。
「これは手縫いじゃあないか」日曜日、官舎への通い妻から力作を受け取った松山2尉は驚嘆の声を上げた。WAC隊舎にもミシンが置いてあることは聞いているので当然、そちらになると思っていたのだ。ところが中村士長は布製の階級章のミシンの縫い目に1針1針ずつ糸を刺して縫い付けている。裁縫上手でも1時間では済まない超絶技巧だ。
「これなら定年まで1尉のままの方が好いな」賞賛と感謝の辞も皮肉になるのが松山2尉だった。
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  1. 2019/11/12(火) 12:09:40|
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