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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月12日・帝国陸軍初の特別攻撃隊・万朶隊が出撃した。

連合艦隊の捷1号作戦がレイテ湾への突入直前に中止になっていた昭和19(1944)年の11月12日に帝国陸軍初の特別攻撃隊・万朶隊が出撃しました。
敗戦後の日本では帝国海軍を英雄視し、帝国陸軍を断罪する風潮が蔓延していましたが、実際は特別攻撃隊でも海軍より合理的で人道的な実施要領を採用していました。
帝国陸軍は帝国海軍が劣勢に陥り、制海権を喪失して太平洋諸島に配備している守備隊への補給どころか撤収も不可能になっていることに深刻な危機感を抱き、現有の爆撃機で対艦爆撃と雷撃戦を実施することを決定し、海軍から指導員を招聘して訓練を開始しました(この時、指導員たちは陸軍の中島製の航空機が海軍の三菱製よりも格段に優れることを目の当たりにして羨望の声を上げたそうです)。ところが陸軍の爆撃機の運用思想は大陸の地上部隊に上空から爆弾を投下することだったため安定した風の中で固定・低速度で移動する目標を精密に攻撃するのは得意でも風が大きく変化し、急速な回避行動を取る艦艇については素人に等しい状態でした。それでも猛訓練の結果、昭和19(1944)年10月12日から16日の台湾沖空中戦で初陣を飾ったもののアメリカ海軍は開戦初頭から帝国海軍航空隊の果敢な攻撃に苦しめられていたため対策も強化・高度化していて大損害だけで目覚ましい戦果は上がりませんでした。これを受けて帝国陸軍内の航空当局では爆装したままの突入攻撃の可否についての検討が始まりましたが、ここでも精神論だけで暴走した帝国海軍とは別次元の合理的な議論が繰り広げられたようです。先ず上空から投下した爆弾と爆装した航空機の突入では落下速度が格段に違い、前者なら陸用爆弾でも甲板を破壊して内部で爆発させることができても後者では艦艇の表面を破壊することしかできないと言う見解が勝り、却下されたのです。次に帝国陸軍の搭乗員の操縦技量では敵艦隊に接近することも困難であり、艦艇の対空射撃を掻い潜って突入することは不可能であると言う見解により、再度却下と言うよりも航空当局に拒否されました。それでも戦況挽回を求める東條英機首相兼陸軍大臣(元航空本部長)の強力な後押しがあって昭和19年7月中旬に茨城県の鉾田航空学校で特別攻撃隊が編成されたのです。フィリピンで万朶隊と命名された特別攻撃隊は航空士官学校教官の岩本益臣大尉を隊長として99式双発軽爆撃機で編成されましたが、帝国海軍とは違い命令でした。その理由は「志願制では全員が志願して通常の作戦との両立が困難になる」との合理的判断だったようです。
特別攻撃隊は10月22日に立川飛行場を離陸して、岐阜の各務ヶ原、福岡の雁ノ巣、台湾の嘉義の各飛行場を経由して10月29日にフィリピンに到着しました。しかし、第4航空群司令官・富永忠恭中将の「出撃前に酒を酌み交わしたい」と言う要望を受けて11月7日にクラーク飛行場から司令部があるマニラに向かった岩本隊以下4名の操縦士官が搭乗した特攻機が離陸直後にアメリカ海軍の艦載機に撃墜されて全員が戦死してしまいました。結局、万朶隊は4人乗りの99式双発軽爆撃機4機に生き残った田中逸夫曹長以下4名の下士官搭乗員と1番機のみ通信員による5名で出撃しましたが(帝国海軍は定員通りに搭乗させていた)、アメリカ海軍の記録が混乱しているため戦果は不明です。
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  1. 2019/11/12(火) 12:10:52|
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