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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1736

中村士長は脳波の検査ができる総合病院に搬送された。金充珠(キム・ユンジュ)選手は会場に詰めていた医師に頸椎の過伸展=鞭打ちと診断されて整形外科に運ばれたので一緒にならずにすんだ。金選手は意識を失ったまま担架で運ばれたはずが、係員同士の会話で中村士長が負傷によって棄権をしたことを知ると「だったら私が出る」と叫んだのだ。要するに気絶は倒れたところまでで痙攣や呼び掛けに無反応だったのは反則を奪うための演技だったようだ。
「処置室に入るまでにこちらの病衣に着替えなさい」救急車はサイレンを鳴らしておらず、緊急ではなく単なる負傷者の搬送だったため病院の対応も淡々と流している。中年の看護師は入院患者が着るワンピースの服を中村士長に手渡すとバインダーを構えて寄り添っている松山1尉に質問を始めた。先ほどは反射神経で婚約者と名乗ったものの中村裕美士長の身上を詳しく知っている訳ではない。それでも質問された氏名と現住所に電話番号、職場と保険の種類には答えられた。残念ながら生年月日は判らず年齢だけになった。
その間に中村士長は頭から病衣をかぶり、服の中で道衣を脱ぎ、血染めになっている胸元と袖を見て上唇だけを歪めた。口の中には医師に止血用の脱脂綿を大量に詰められているのだ。
「それではあそこの処置室の前の椅子で待っていて下さい。今、交通事故の患者が3名入っていますからその後になります」看護師は暗い廊下の奥で明るくなっている処置室を手で示すと早足で先に歩いて行った。松山1尉は中村士長が抱えている道衣を受け取ると左手で抱えた。右手には更衣室のロッカーから持って来た私服が入ったスポーツ・バッグを提げている。中村士長は手が握れないので腕を絡めて歩き始めた。
「あッ、居た居た」「ここだ、ここだ」中村士長が処置室に入り、松山1尉が廊下の長椅子に取り残されていると2人の男性が廊下に足音を響かせて駆け寄ってきた。「病院では静粛に」と言う常識を知らないらしい。男性たちは松山1尉の前に立ち止まると一方的に話を切りだした。
「貴方は〇〇区体育館の極真会館愛知県大会女子の部の2回戦でテコンドーの選手と対戦した自衛官の付添人さんですね」どうやら試合を取材していた新聞記者のようだ。
「答える前に貴方たちの申告を求めます」「その口調はお前も自衛官だな」こちらを自衛官と推察した途端に「貴方」が「お前」になった。阪神大震災を契機にして日本人の自衛隊に対する感情は急激に好転しているらしいが、マスコミ関係者は相変らずと言うことだ。
「私はC日スポーツの岡田だ」「私はN古屋タイムスの村松だ」「名刺は」松山1尉は無反応に名刺を要求して2人の間で手を広げた。通常の自衛官はマスコミに過剰な警戒心を抱き、名乗られただけで身構えてしまうのだが、東京6大学出身の松山1尉にとって地方のスポーツ新聞と夕刊紙の記者くらいは鼻で笑ってしまう存在だ。
「申告に虚偽がないようだね。私は陸上自衛隊の松山だ」「所属はどこだ」「階級は何だ」松山1尉は手渡された名刺を確認するとこれ以上の簡略はない肩書を説明した。すると即座に質問が返ってきたが、名刺の交換を要求しないのは自衛官にそれを持ち歩き、交換する習慣がないことを知っているのだろう。
「階級は1尉だ。所属は第10師団とまで答えておこう」「1尉と言うことは幹部だな」「幹部だから国家公務員管理職に対する礼儀を失するな」先日、昇任したばかりだが1尉は警察では警部、消防では消防司令、海上保安庁では2等海上保安正に相当する。松山1尉も年明けに定年退官する中隊長が付に入った時点で交代して編成単位部隊長に就任する予定だ。
「それでは取材の申し入れをさせていただきます」C日スポーツの岡田が表情を和らげて申し入れた。流石の記者たちも若い割に悠揚迫らぬ松山1尉に態度を改めたらしい。
「取材の目的は」「日韓対決で自衛官が勝利した。その栄光を紹介すれば読者も感激して自衛隊に対する支持も高まるはずです」「おまけに名誉の負傷を折ったとなれば同情も集まりますよ」多くの自衛官はこの甘言にま気を許して本音を語り、誘導されるままに過激な発言を引き出されしまうが松山1尉は大学時代、政治報道についての講義も取っていたのでその反対の意図を嗅ぎ取っていた。松山1尉は鼻息で笑うと妙に軽い口調で答え始めた。
「要するに自衛隊と在日の対立を煽りたいんですな。この時間に来たと言うことはアチラの病院にも取材に行ったんだろう。向うが敵意を剥き出しにしてコチラが受けて立てば紙面上の対決が成立する」「それは深読みが過ぎますよ。我々はそのような・・・」N古屋タイムスの村松が反論するのを遮るように松山1尉が試合終了を宣告した。
「中村は個人資格で私的行為として大会に出場して、抽選の組み合わせで跆拳道の選手と対戦しただけだ。対戦結果と負傷について報道することは阻止できないが、自衛官と言う個人情報を表に出せば法的処置を講じることになるよ」この対戦の防御は鉄壁だった。
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  1. 2019/11/16(土) 12:36:39|
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