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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1737

「申し訳ありませんが外科病棟の女性部屋は手術待ちの患者と交通事故の負傷者で満室なので、脳波に異常がなかったことですから今日は御自宅で安静にすると言うことで・・・」脳波の検査を終えて若い当直医の診断を受けていると横から責任者と思われる看護師が説明してきた。ここまで詳細に説明されなくても無理に入院を要求するつもりはないが、反論の余地がなくなったのは間違いない。唇の中を縫合して傷口が塞がったとは言え麻酔で痺れているため中村士長は話すことができない。そこで松山1尉が替わって受け答えすることになった。
「それでは自宅での生活で注意することをお願いします」松山1尉の返事を聞いて医師と看護師は安堵したように顔を見合わせた後、一般的な注意事項を印刷した紙を手渡した。これは交通事故などの外傷用で口の中の裂傷には必ずしも合致しない点もある。
「食事は明日まで控えて下さい。明日からもゼリー状の半固形物が望ましいです。水分もストローで飲むようにして下さい。なるべく唇を動かさず濡らさないように気をつけて下さい」医師は印刷物には触れていない注意事項を羅列し始めた。メモするほどの内容ではないが無意識に破ってしまうかも知れないので記憶に刻み込んだ。
「かなり出血していますから造血効果がある食品に心がけるように。赤身の魚や牡蠣、野菜なら法蓮草や苦瓜,果実なら林檎や苺、柑橘系、プルーンも良いですね」「判りました。今夜は私が付き添って介助します」松山1尉の返事を聞いて医師と看護師は再び顔を見合わせたが、今回は少し複雑な表情が交錯している。
「すると中村さんは貴方の家で泊まるのですね」松山1尉と同世代の医師は妙にぶっきら棒に確認した。言われてみれば松山1尉も一応は男性であり、そこに中村裕美を泊めるのだ。
「だったらキスの口づけは禁止です。そこから先も当分は我慢して下さい」医師は説明している間に顔に羨望の色を浮かべ、病院でもらった大きなマスクをした中村士長の顔を見た。歪んだ部分を隠せばいつもの可愛い中村裕美なのだ。
「判りました。キスは額か頬にします。そこから先の予定はありません」松山1尉の淡々とした口調と意外な答えに今度は医師と看護師は顔を見合わせた後、苦笑した。しかし、中村士長は何かを決意したような目で傍らに立っている松山1尉の顔を見上げていた。
病院からはタクシーで守山へ帰ったが、市街地から少し離れている官舎に行く前にコンビニエンス・ストアに寄った。男性店員は大きなマスクをした中村士長を見て怪訝そうな顔をしたが、女性の強盗の危険性は低いので何も言わなかった。
「カロリーメイト・ゼリーを大量に買い込んでいこう。野菜ジュースも必要だな。ストローも忘れちゃあいかん。果物もジュースで取ろう」松山1尉が陳列棚を回りながら声をかけると中村士長は返事の代わりに商品に手を伸ばしてカゴに入れていく。松山1尉はその数と重さで中村士長が自分の部屋で過ごす予定を確かめた。病院からWAC当直には「介助が必要なので官舎に泊める」と連絡し、衛生隊には「満室で入院できずに帰った」と連絡しておいた。WAC当直の士長は宿泊先を何度も訊いたがこちらは1尉であり、本人は回答不能と言うことで黙らせた。そのやり取りを聞いていた中村士長の中では覚悟が固まっているのかも知れない。少なくともWAC隊舎内は評判で持ち切りになっているはずだ。
「アナタの夕食は・・・」自分が口にして腹を満たす飲み物を決めたところで中村士長はマスクの中でささやいた。確かに病院で聞いてきた食品と飲料を思い出しながら選ぶことに熱中していて自分の食事は完全に忘れていた。日頃は冷静で客観的な状況判断に自信を持っているが、今日は完全に一点集中に陥っている、
「そうだったな。弁当を買って帰ろう。君の勝利を祝してカツ丼にするよ」すると中村士長は首を振った。その意味が判らず口に顔を近づけると「今度、私が作る」と呟いた。
官舎に戻ると松山1尉は中村士長を台所の指定席に座らせて座卓の上にカロリーメイト・ゼリーと野菜ジュース、林檎ジュースの缶を並べた。自分の天丼弁当とお茶の缶も一緒だ。
「怪我したのが昼前で2食抜きだったから腹が空っただろう。ゼリーじゃあ満腹感がないけど栄養価を確保するために多めに飲めよ」松山1尉が声をかけても中村士長はマスクをしたままうつむいて動かない。そこでゼリーを1つ取ると顔の前に差し出した。
「まだ顔が歪んでるんでしょう。貴方に見せたくない」中村士長はかすれた声で呟くと涙をこぼした。救急車に乗せられるまでは映画のロッキーの試合後の顔になったことを自嘲していたが車内で手を握り続け、こうして生活空間に招き入れられたことで中村士長の中の女性が目を覚ましたのかも知れない。松山1尉は膝で立つと両手を伸ばしてマスクを取ると熱を持っている頬を両手で優しく包んで額に口づけし、目の上に続けた。ただし、中村士長が大好きな同郷の歌手・平井堅の「瞳をとじて」が大ヒットするのは数年後のことだ。
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  1. 2019/11/17(日) 13:39:27|
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