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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1738

シャワーを浴びて汗を流した後、少し体温が上がってきたので中村士長を布団に寝かせた。パジャマは帯抜きの着替え用の道衣だ。次にシャワーを浴びた松山1尉は血染めになった道衣と自分で洗濯するつもりでバスタオルに包んで置いてあった下着を洗濯した。替えの下着も試合で汗になることを考えて用意してあったようだ。
「洗濯は明日、私が・・・」洗濯機が回り始めたところで様子を見に戻ると布団に仰向けに横たわっている中村士長は薄目を開けて呟いた。かなり腫れは引いているが下唇の動きはぎこちなく縫合した個所が引きつっていることが判る。松山1尉は部屋の電灯は点けずに襖を全開にして台所の照明だけでその場に座った。
「麻酔が切れただろう。痛くないか」「食後に飲んだ錠剤が効いているみたい。大丈夫です」病院では夕食後に服用する化膿止めと鎮痛剤を処方されている。しかし、食後と言っても医師は今日の食事は控えるように指示していた。確かに食事と呼べるような固形物を口に入れることは不可能だが、ゼリーだけで食後の指示がある薬を飲んでも良かったのかは判断に迷った。
「鎮痛剤なら眠気も誘うだろう。安心して眠りなさい」「でも布団は1組しかないんでしょう」腫れが引いた分、会話もできるようになってきたようだ。それでも調子に乗って話を弾ませる訳にはいかない。そこで冗談で安心させることにした。
「僕が普通科の幹部だってこと忘れてるだろう。野営に比べれば床があるだけで安眠できるよ」「だったら手をつないで眠らせて下さい」本当は中村士長が眠った後、仕事部屋のパソコンでインターネットの情報収集を始めるつもりだったのだ。それでも今日、初めて触れた中村士長の肌、と言っても手と頬・額の温もりの方が心を惹きつける。松山1尉は台所の座布団2枚と押入れから出した毛布で寝床を作った。
「でも洗濯機が止まったら干しに行くぞ」「はい、待っています」女性心理に無頓着な松山1尉は自分の汚れ物と一緒に中村士長の下着も洗濯機に入れてしまうところだが今回は道衣があるので別にしていた。余計なことをせずに洗濯するところは流石に松山1尉だ。それでも女性用下着を入れる洗濯ネットは持っていないので生地が傷んでしまう可能性はある。
「眠れないのか」中村士長の衣類の洗濯だけを終えて台所を常夜灯してから寝床に戻ると横向きになって寝ている中村士長が目を開けた。松山1尉が座布団を2つ折りにして枕を作って横になると中村士長が伸ばしてきた手を約束通り握った。
「眠れるように子守歌を唄って下さい」「子守歌ってネンネンヨーって奴か」「いいえ、静かな歌なら何でも結構です」松山1尉にも音楽の趣味がない訳ではない。ただし、大学時代から東南アジアやアフリカの民族音楽のカセット・テープとCDを集めている。彼らの祭礼の曲の多くは打楽器を打ち鳴らして士気を鼓舞するものなのでマーチや軍歌よりも直に闘争本能を湧き立たせる。当然、子守歌には使えない。松山1尉はしばらく考えた後、小声で唄い始めた。
「シー、メイ ビー ザ フェイス、アイ キャント フォーゲット(あの女性、忘れられない面影)、ア トレイス オブ プリ―シュア オア レグレット(快楽と後悔が残された足跡だ)・・・」すると中村士長も鼻歌で合わせ始め、無意識のうちに音量は上げっていく。
「・・・フォー ウェアー シー ゴーズ アイブ ゴー トゥー ビー(彼女が行く所には一緒に行かなければいけない)、ザ ミーニング オブ ライフ イズ シー(私の人生の意味はあの女性なのだから)、シー(あの女性)、シー」唄い終えると常夜灯の暗い明りで中村士長の目が潤んでいるのが照らし出された。
「これって平井堅の『SHE』ですよね」「違う。これはエルヴィス・コステロの『SHE』で『ノッティングヒル』と言う映画の挿入歌だよ」小守歌と鼻歌は完全に一致していたので同じ曲なのは間違いないが聞いた経緯は違うらしい。実は松山1尉は大学時代に「プリティー・ウーマン」を見て以来、ジュリア・ロバーツの大ファンで守山に赴任してからも名古屋で邦題「ノッティングヒルの恋人」を見て感激し、インターネットでダウンロードして繰り返し見ているのだ。歌そのものには「忘れじの面影」と言う邦題がついていて本来はフランス人歌手・シャルル・アズナヴールがヒットさせたイギリスのテレビドラマの主題歌だ。一方、中村士長が好きな平井堅は最近この曲をカバーしていた。
「『ノッティングヒル』はいつ頃の映画なんですか」「あれは一昨年だったな」「出演は」「ジュリア・ロバーツとヒュー・グラントだよ」「ストーリーは」小守歌のはずが逆効果になってきた。
「そんなに興味があるなら見せてあげよう。こっちへおいで」結局、中村士長を作業部屋へ連れていってパソコンでの映画鑑賞会になってしまった。
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  1. 2019/11/18(月) 10:54:30|
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