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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1740

「ここでカバーではありませんが、僕が大好きな歌をお送りします」ステージの中央の椅子に腰をかけて軽い雑談以外は淡々と唄ってきた平井堅が珍しく曲の解説を入れた。それだけ意外な曲なのかも知れない。これまでもアメリカのジャンルを問わない流行歌だけでなくルイ・アームストロングの「ワット ア ワンダーフル ワールド」やディズニーのピノキオの主題歌「ウェン ユー ア アポン ア スター」などの古い歌まで無作為とも思われる選曲でバーのBGMのような雰囲気を演出している。するとピアノが静かに伴奏を弾き始め、マイクに平井堅の癖らしい強く息を吸う音が入った。
「大きなのっぽの古時計 お祖父さんの時計 百年いつも動いていた ご自慢の時計さ・・・」これは童謡だ。それでも息抜きではなく想いを込めた歌声が心に響いてくる。特別な思い出はない中村3曹も知らずに目が潤んできた。すると隣りの松山1尉も鼻をすすった。
ドアベルの音が響いて照明が消えた後、場内が普通の明るさに戻るとケンズバーは閉店だ。その暗くなっている間に平井堅は退場していて聴衆たちも本当のバーから帰宅するような雰囲気で席を立った。勿論、聴衆は追っかけをするような年齢層ではない。
「どうだった」「うん、酒の飲み比べは美味かったな」雑踏に紛れて歩きながら中村3曹は松山1尉に感想を訊いてみた。勿論、これは手順のようなもので本人も感激していたのは見ていて判っている。それを素直に言わないところは世代に似合わぬ昔の男性的だ。
「気に入った曲はあった」「暗くてパンフレットが見えなかったから曲名は判らなかったよ。でも英語の発音はネイティブじゃあないな」中村3曹としては気に入った曲があればCDを持って来て官舎で聴こうと思ったのだがまだ悪口は続くらしい。
「それに『大きな古時計』は歌詞が間違ってただろう」中村3曹もこの歌は知っているが特に気にならなかった。すると松山1尉が口ずさみ始めた。
「お祖父さんの生まれた朝に 買ってきた時計・・・って唄っただろう。あれは『お祖父さんが生まれた朝に』のはずだ。格助詞の『の』と『が』は連体修飾節の主格を表すのに単一と両立の違いがあるんだ。この場合・・・」中村3曹はこの高度で難解な個人教授を受けて陸曹候補生の試験に満点で合格したのだが、今回は幼稚園で習った歌詞を思い出して解決しようとした。すると松山1尉が前を向いて歩きながら思いがけない続きを口にした。
「お前は綺麗な花嫁になって僕の所へ来るんだぞ。一緒にチクタクと時計の音を刻んでいこう」「やっぱりあの時・・・」中村3曹の胸に「Life is」の間奏の時に松山1尉が何かを告げた顔が甦った。声が届かなかったので唇の動きに言葉を当てはめてみると「愛している」「結婚しよう」になった。しかし、確信が持てず返事をしなかったのだ。
「どうなんだ。返事」「押忍(おす)」中村3曹は突然、立ち止まると両拳を額の前で切り、腰に据えて構えた。腹の底から出した声には迫力があり、周囲のカップルたちが後退さりした。
「よし、もらったァ」松山1尉はその場で抱き上げると廊下を歩き始めた。後退さりしたカップルたちはそのまま通路を作り、それが前に伸びていった。
「ラブ ライフ アス アップ ウェア ウィ ビロング、ウェア ザ イーグル クライ オン ア マウンテン ハイ・・・」この時、松山1尉は似合わない洋楽を口ずさんでいたが、残念ながら中村3曹は知らなかった。
「本当に守山の官舎で好いんですね。ラブホかと思いましたよ」歌と美酒にホロ酔いした気分を持ち返るため帰りはタクシーになった。車内でも松山1尉は中村3曹の肩を抱いて離さない。ルーム・ミラーでそれを見て運転手がからかってきた。
「今日は雲がかかっているから昭和一郎は入らないかな。岐阜のローカル放送だけど面白いんだ」2人が反応しないので運転手は独り言を呟きながらラジオを操作した。すると50歳代と思われる男性DJの声が流れ始めた。女性DJと相場が決まっている夜のラジオでは意外だ。
「それでは今(地名)の野口六郎さんのリクエストで昭和57年の曲です。映画『愛と青春の旅立ち』の主題歌『アップ ウェア ウィ ビロング』をどうぞ」「洋楽かァ。やっぱ昭和一郎は懐メロとド演歌だろう」運転手は期待外れの洋楽に苦情を口にしたが、ルーム・ミラーの2人が真顔で聴き入っているのを見て黙った。
「これってさっきの歌ね」「僕は音痴だけど発音は平井堅よりもネイティブだぞ」偶然にしても出来過ぎな種明かしだ。さらに歌が終わって昭和一郎が補足説明してくれた。
「唄っているのはジョー・コッカーとジェニファー・ワーンズです。この映画はリチャード・ギアがデブラ・ウィンガ―を抱き上げて連れ去るラスト・シーンが人気でした」それにしても松山千秋1尉は完全に弾けてしまっているが人格崩壊は大丈夫なのだろうか。
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  1. 2019/11/20(水) 10:23:44|
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