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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月24日・今ならオリンピック担当大臣?大松博文監督の命日

1978年の明日11月24日に過酷で徹底的な練習によって日本女子バレーボール・チームを育て上げて東京オリンピックで金メダルを獲得し、自民党の勧誘で参議院議員に当選しながら1期で使い捨てられた大松(だいまつ)博文監督の命日です。57歳でした。
大松監督は大正10(1921)年に香川県でも丸亀市と坂出市に挟まれた海岸の町・宇多田町で生まれました。旧制中学校を卒業後、関西学院大学に進学して日本紡績(=ニチボー)に就職しますが昭和16(1941)年に招集されて陸軍士官となり、中国・ビルマ・ラボール(=ラバウル)を転戦します。中でもビルまでは牟田口廉也劣将が強行した「史上最悪の作戦」=インパール作戦に参加して往復とも生き地獄を味わいました。不幸中の幸いだったのは所属していた第31師団長の佐藤幸徳中将が牟田口司令部の無責任な作戦指導に見切りをつけて独断で撤退したため九死に一生を得たことです。この経験が後の厳しくも温かい指導者としての姿勢に影響を与えたと言われています。
敗戦によって帰国すると日本紡績に復職し、昭和29(1954)年からは日本紡績の各工場に分散して活躍していたバレー部員を貝塚工場に集中させて結成されたバレボール部・ニチボー貝塚の監督に就任しますが、陸軍式の鉄拳制裁(女性だけに顔ではなく尻)を含む過酷な練習でチームを強化したもののマスコミからは批判的な視点で報道されたため「鬼の大松」が代名詞になってしまったのです。それでもニチボー貝塚は昭和33(1958)年には全日本総合と全日本実業団、都市対抗、国民体育大会の4冠を達成し、昭和36(1961)年のヨーロッパ遠征では22戦に全勝して「東洋の魔女」の異名を捧げられ、昭和37(1962)年の世界選手権には単独チームで出場して優勝するなど名実ともに日本スポーツ界でも最高の名将と評されるようになりました。指導理念としては守備を重視して徹底的なレシーブの練習を繰り返し、やがては徒歩の移動では間に合わない場所への球に飛び込んで受けながら柔道の受け身式に体勢を立て直す回転レシーブを編み出しました。こうして東京オリンピックで優勝を果たすと著書はベストセラーになり、映画化もされたことでその名声は不動の物となりました。
この人気を自民党・佐藤栄作政権が見逃すはずはなく、昭和43(1973)年の参議院議員選挙に全国区から出馬して当選しますが、当時の行政機構にはスポーツ界出身者が活躍する役職はなく、当選回数の上下序列も現在以上に厳格だったため飼い殺しのように6年の任期を過ごしたようです。おまけに昭和49(1974)年の参議院選挙では全国区の序列を下げられたため落選の憂き目に遭いました。落選後はバレボール界に復帰して全国各地で講演や指導を行い、イトーヨーカドー・バレーボール部の創立に参加しますが、その直後に心筋梗塞で亡くなったのです。
大松監督の政界進出が現代であれば脳まで筋肉の元オリンピック選手が務めている役職で卓越した指導力を発揮したはずですが、スポーツ界にまで「パワハラ」「セクハラ」なる個人的な不満を被害者意識に置き換える忘恩の感情論が蔓延している現状ではマスコミによって誅殺される危険性も高いような気もします。
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  1. 2019/11/23(土) 13:20:38|
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