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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第84回月刊「宗教」講座・2008年のチベットにおける惨劇・後編

ここまで共産党中国がチベット佛教を敵視する背景にはマルクスやスターリンが宗教を人間の科学的思考を冒す麻薬として否定した思想的な経緯だけでなく、漢民族としての屈辱の歴史があると言われています。
チベットでは古来、ボン教と呼ばれる日本の神道にも通じる自然崇拜から発生した原始宗教が全ての階層で信仰されていました。そんなチベットの統一を成し遂げたソンシェン・ガンポ王(在位581年から649年)がインドと唐から嫁した二人の王妃の勧めにより佛教の導入を決め、首都のラサにトゥルナン寺(大昭寺)を建立して王家の宗旨としました。さらにティソン・デツェン王(在位742から797)が大僧院・サムイェー寺を建立すると共に742年にはインドのナーランダー大僧院の座主だったシャーンタラシクタを招聘して入持させたことで国教として根づくことになりました。そんなデツエン王の佛教保護はバラモン教と711年から始まるイスラム教の圧迫を受けていた北部インドの佛教者の間に広まり、密教の大行者であるパドマサンバヴァも遷座してくる一方で唐からも禅宗の高僧として摩訶衍が招かれ、国王の前で法論が交わされることになりました。その結果、インド佛教に軍配が上がりましたが、中国や朝鮮、日本に伝来した佛教は始めから書物としての経典であり、偶像崇拝の儀式であり、修行の形式に過ぎず、釋尊の肉声が脈々と語り継がれ、釋尊の体温まで伝わっている修行生活を守り、戒律を保ってきたインド佛教に敵うはずがないのです。これは完全な偶然とは言え、この時期には唐の律宗の名刹・大明寺の住職だった鑑真和上が五度の失敗の後、752年に日本への渡来(トライ)に成功しています。こうしてチベットでは膨大なインド佛教の経典の翻訳が始まり、さらにチベット僧たちを受戒・入門させて教義と修行の両面に於いて正式な佛教を移入させることに成功しましたが、これが現在も残る大蔵経であり、この計り知れない労力と真摯な取り組みによって原始佛教の教義を正確な形で現在に継承することができたのです。ところが国家が統一されて国家としての体裁が整うとラン・ダルマ王は国民に圧政を強いただけでなく廃佛毀釋を強行したため佛罰が下り、842年に急死しました(暗殺説もある)。ちなみに中国・唐朝の19代皇帝の武宗も道教に傾倒するあまり廃佛毀釋を行いましたが武宗の没年も846年の4年違いです。その後、インドの佛教は中央部を支配するバラモン教によって発祥の地であるヒマラヤ山麓の北部とインド洋に浮かぶ離島のスリランカやヒマラヤに連なる高地で隔てられたミャンマーなどに押しやられましたが、このうちスリランカと東南アジアでは釋尊の佛教教団の修行生活を継承する南方佛教となり、北部では正当な法脈を維持する僧院と現世利益を実現する教義として大乗佛教が成立し、その一派として密教が発展していきました。このためチベット佛教でもインドの後期密教が流入して呪術的な儀式が盛んになるなど混乱を来たしますが、11世紀に入るとイスラム教の本格進攻によって存在の危機に瀕していたインド佛教の大僧院の座主・アティシャとその弟子が亡命してきて、これによって正統な法脈と授戒が伝承し、佛教の嫡流としての地位を確立すると共に余技としてインドや中国から流入した多くの宗派も合わせて探求し、修行としても維持されて一大佛教国に発展していきました。チベット佛教は現在、ニンマ派、カギュ派、サギャ派、ゲルク派の4派に分かれており、教義としては佛教の嫡流として戒律を堅持している点は南方佛教に通じますが、原始佛教の霊性否定、実践=出家生活のみではなく、如来や菩薩の現世の姿である化身と天に実在する報身、そして佛法と一体化した超越的な法身の三身を説いている点は密教の流れを汲み、現世利益を認める普遍性は大乗佛教に近い面もあります。現代になって学術的に解説されているところでは般若=智慧と方便と重視するインド後期密教の流れを汲み、無上瑜伽マントラを実践している大乗佛教が発展した宗教形態としています。
1240年代になるとモンゴルがチベットにまで侵攻してきましたが、その将であったクビライはチベット佛教の深遠な教義と厳粛な儀礼に心酔し、皇帝に即位後も篤く信仰したため、モンゴル民族の国教としたのです。それは元朝が滅亡してからも中国北部に持ち返られて広まり、道教を崇拝していた明朝に代わって満州民族が1600年代になって建国した清朝も国教としました。漢民族にとって異民族に支配された歴史は屈辱以外の何物でもなく、漢民族が清朝を打倒して中華民国を樹立した辛亥革命や毛沢東の狂気によって生起した文化大革命でも佛教寺院が標的になり、貴重な歴史的な宗教遺産の多くが破壊されましたが、これも佛教を異民族支配の汚点として忌み嫌っている証左なのでしょう。元朝後もチベットは中国の各帝室に朝貢して臣従の形をとりましたが、実際は支配が及ぶような地理的条件ではなく、事実上は独立を維持していました。ところが清朝末期になるとインドを支配したイギリスがヒマラヤを越えて探検隊を進入させ、その偵察によって経路を確定するとチベット民族のグルカ兵を先導として軍隊を派遣してきました。これを受けてダライ・ラマ13世は清朝に対して軍隊の派遣とイギリスとの外交交渉を要請しましたが、すで死に体となっていた清朝にできることはなく、形式的にチベットに対する清朝の支配権を認めながら実質的な独立国とする策略によって影響下に置き、清朝が崩壊した後にイギリス、中華民国、チベットの三者協議の結果、1914年に締結されたシムラ条約によって植民地化されてしまいました。ただ、不幸中の幸いだったのはイギリスがスペインやポルトガルのように十字軍を世界規模に拡大してカソリックへの入信を強要して、従わない者は公然と殺戮するようなことはなく、その地域で獲得する利益にしか興味を示さなかったことです。このため当時から利用価値があった金銀銅鉄などの鉱物資源も産出せず、耕作不能の荒れ地しかないチベットには対しては関心を示さず、書類上は支配をしても実際は放置したおかげでチベット佛教の命脈は何とか保たれました。しかし、第2次世界大戦後の国共内戦で共産党軍が勝利すると、その指導者である毛沢東は瞬く間にチベットの東部と東北部を含む中華民国の支配地域を制圧し、1949年10月1日に新国家として名乗りを上げたのです。そうして毛沢東はチベット全土に狙いを定めました。何故ならチベットが独立を果たしたインドと同じくイギリスを旧宗主国として同盟関係を結べば旧中華民国領内にインドの軍事拠点を与えることになるだけでなく、チベットは中国だけでなく東南アジア各地を流れる大河の水源地帯であり、ここを押さえることは下流の国家・人民の命脈を手中に収めることを意味するからです。1950年にすでに支配していたチベット東部から侵攻を開始し、先ずチャムド県に迫りました。そこで県知事を拘束すると3週間を経ずに首都・ラサを占領し、15歳だったダライ・ラマ14世を保護名目の監禁状態におき、チベット政府当局への説明や政治的手続きもないまま拘束していたチャムド県の知事を新たな政治指導者に据え、完全な操り人形にしました。こうして西側への情報を遮断した鎖国状態の中で共産党中国は大規模で徹底的な弾圧を加え、人類の宗教史上の奇跡とも呼ぶべきチベット佛教の命脈は今や風前の灯火になっているのです。
2008年の弾圧は北京オリンピックの取材で入国する外国人ジャーナリストたちがチベットへの取材を要求することは確実であり、そこで弾圧の実態が暴露されれば、市場主義を導入した新たな国家体制への変革を表看板にして国際社会に参入した共産党中国の立場が暗転するのは間違いなく、その前にチベット佛教をイスラム過激派と同様の凶悪なテロリストに仕立て上げる必要があり、それをイギリス人ジャーナリストを使って実行したと言うのが真相だと断言します。
野僧はチベットの独立回復を諦め、マハトマ・ガンジー式の平和的な手段で自治権確立を実現しようとしているダライ・ラマ14世猊下は甘いと考えています。ガンジーの「非暴力不服従」の独立運動は棍棒で殴られても無抵抗で前に進むインド人の姿にイギリス人が良心の呵責に悩んだから成功したのであって、一片の良心も持たない中国人には通用しません。中国人にとってチベット佛教は清を建国して漢民族を服従させた満州族の憎むべき宗教なのですから。実際、中国人の禅僧の友人はダライ・ラマ14世猊下を「法王」と呼んで「宗教を使った洗脳で人民を搾取した封建君主」と徹底的に非難しており、弾圧も「当然だ。遅きに失した」と断言します。ただし、中国人は毛沢東思想に洗脳されていることを演じなければ国内で生きていけませんからそれが本心なのかは判りません。チベット佛教のマントラ(呪文)「オム・マニ・ペメ・フム」
ダライ・ラマ14世猊下ダライ・ラマ14世猊下
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  1. 2019/12/01(日) 12:47:36|
  2. 月刊「宗教」講座
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