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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1755

「君はそんな暴風波浪警報が発令中の大海で海洋調査に当たっている船の船長に向いていそうだな」「大きさから言えば船長と言うよりも船頭ですがね」松山3佐の時事迫撃砲弾が炸裂したのを見て幕僚長と防衛部長は本題に踏み込んだ。これは諜報を職務とする者にとって最も重要な素養である洞察力を試す即答問題でもある。
「好いですね。私は頭脳労働者ですから甲板で波に打たれる船員は御免こうむりますが、船橋で舵を操る船長は得意です。我が社の船舶は水路でしか運行していないようなので、大海原に乗り出す仕事には二つ返事です」「二つ返事」は「はい、はい」と返事を重ねることで軽い快諾を意味すると思われがちだが、「は」と「い」の2つの音で重い了承の意思を表しているとする説もある。松山3佐が陸上自衛隊を「水路」と揶揄したのは型通りの硬直した思考しか許されない組織の中で朽ちていく自分に対する鬱積した憤懣の吐露だろう。
「しかし、君には家族があるんだよな」「とは言え相談して決めてもらう訳にはいかないが」返事を聞いてから不安材料を確認するのは軍が困難な任務を命ずる時の定型だ。過去の戦争でも決死隊や特攻隊を命じた時、指揮官は死後の処置のために後から確認していた。
「私を選んだと言うことは家族同伴を前提にしているんでしょう。妻は巴御前ですから事に臨んでは危険を顧みず、専心その職務の遂行に当たる覚悟はできています」答えながら松山3佐は自衛官の服務の宣誓のこの一節を口癖にしていた守山の中隊長の影響が思いの外、深いことに気がついて苦笑してしまった。WACを源義仲の愛妾の女武者・巴御前に言い替えたところも現代に生きる古武士の影響なのは間違いない。
「ならば安心だ。実は風呂場の責任者の後任が事故で急死して人選に苦労してたんだよ」防衛部長がニューヨークを風呂場にしたのは親父ギャグに近いが松山3佐は理解した。
「そんな折に君の岩手での活躍を聞いて色々と調べさせてもらったら最適任者であることが判ったんだ」確かに幕僚長は東北地区太平洋沖地震の災害派遣では統合任務部隊司令官として指揮を執っていたが、北部方面隊の第3普通科連隊が活動していた宮古市には視察に来ていない。その意味ではこの説明は困難な任務を与えた部下に対する激励の世辞に聞こえる。松山3佐自身としては名寄には現在も信奉者が多い前防衛部長の晩鐘陸将が何らかの情報を掴み、内定を始めていたのではないかと推理していた。
「その御説明には無理がありますね。家族の問題1つにしても必ずしも適任とは言えないでしょう。苦肉の策、多少のことには目をつぶりの妥協の産物ですな」松山3佐は折角、幕僚長が持ち上げてくれた高所から自分で飛び降りた。事前情報なしで臨んだ面接試験の断片的な問答だけで自分に課せられた新たな任務を理解し、それに必要な資質にまで考えを巡らしているようだ。幕僚長は防衛部長と顔を見合わせて唇を噛んだ。
「氷が溶けると折角のオールド・パーが薄くなって味が判らなくなります。飲んで下さい」会話が途切れたことでママさんが心配そうに顔を向けたため防衛部長が快活な声で酒を勧めた。それを受けて幕僚長と松山3佐もグラスを口に運んだ。
「名古屋の熱田から三重県の桑名市までは江戸時代には名古屋城下に東海道を通すことを避けた海上交通路でした。そのため藩士たちも舟を漕ぐことには長けていたそうです」酒が入れば仕事の話題は禁句であり、一杯飲んだ勢いで上司に仕事上の要求を迫るのは下の下の酔態だ。冒頭の船長の話題から歴史談義に展開した松山3佐には感心してしまうが、ここでも自分と桑名の関係については触れていない。保全に対する配慮も十分だ。
「早い話が大井川の海上版と言うことだな」「大井川だけじゃあなくて浜名湖の今切れ口も船で渡ったんだよ」防衛部長のボケに元豊川駐屯地司令・第10特科連隊長だった幕僚長が突っ込んだ。こうなれは普通の酒席の雰囲気だ。他の客と同席することを避けるため早めの時間に待ち合わせたが、そろそろ帰宅前に一杯引っ掛ける客たちが来る頃だから丁度よい。
「箱根の山道も難所でしたから江戸の防御態勢は盤石だったんですね」「実際、戊辰戦争ではフランス式軍制を整えていた幕府軍の主力を海路で静岡に送って箱根の山道で難渋している薩長軍を背後から襲う作戦を立てていたようです」歴史談義でありながら軍事の話題になるのは職業病の一種だがこれは珍しいことではない。するとそこに男女2人連れの客が来て、ママさんが「いらっしゃいませ」と声を掛けた。こうなるとこちらは退却だ。
「君の支社では支社長の職権乱用が発生しているようだな。君がその対応に苦慮していることも聞いている。それを理由に退職を申請するのが人事発令だ」「はい、私もそのつもりです」どうやら森田曹侯補士と心中する形で中隊長が依願退職することになるらしい。松山3佐の返事を聞いて幕僚長と防衛部長は深くうなずいた。
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  1. 2019/12/05(木) 12:57:34|
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