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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1756

「遠からず表向きは自衛隊を辞めることになった」名寄に帰った松山3佐は娘の小春が眠った後、リビングに置いたテーブルに向かい合って座り、東京での出来事を妻の裕美に語り始めた。今回の出張は予算根拠が弱いので旭川空港からの民間航空とはならず、航空自衛隊の千歳基地まで列車移動して輸送機で入間基地へ、そこから東京へも鉄道だった。そのため流石に疲れていたが、2人にとって重大な話題なので眠気は感じていない。
「その言い方はとんでもない命令を受けてきましたね」やはりこの妻の肝の座り方は半端ではない。通常、WACは女性特有の現実的感覚で自衛隊を見ているため、防衛任務も航空の緊急発進や海上における警備行動、そして陸上では災害派遣による国土防衛の平時に限定され、戦争や治安出動などは絵空事に過ぎないと腹の中で嘲笑していることが多い。その点、裕美は海外の軍事情勢から自衛隊に関する報道まで夫から詳細な解説を受けているため下手な幹部では太刀打ちできないほどのプロ意識を有している。
「海外で情報活動をしている秘密組織の責任者を命じられた。仕事としてはジェームズ・ボンドじゃなくてMだがな」Mとは映画「007」でジェームズ・ボンドに命令を与えるイギリス諜報機関MI6の局長のことだが、松山3佐はイアン・フレミングの原作を愛読しているのでマイルズ・メッサヴィー卿の頭文字だと思っている。メッサヴィー卿は退役した海軍の提督だ。
「それってスパイのボスってこと。適任じゃあない、やりなさいよ」ここまでアッサリ許可されると本当に判っているのかと心配になるが、裕美は海外で発生した軍事情勢の展開と結末をテレビの解説者以上の正確さで予言する夫の情報分析と推理の能力を間近で見聞しており、そんな有為な人材を飼い殺しにしている陸上自衛隊に対して強い不満を抱いているのだ。
「そうなるとお前も退職して一緒にニューヨークへ移住することになるぞ。勿論、小春も連れて行く」人事上の説明はスナックを出て地下鉄の駅に向かって歩きながら聞いただけだった。紙片で手渡せば簡単で確実だが奪われた時の影響を考えるとこの方法しかなかった。
「ニューヨークかァ・・・名古屋よりも大きいんだよね」ここで裕美は初めて不安な表情を見せた。三重県名張市出身の裕美にとっての都会は高校時代に遊びに行った大阪と自衛官として住んだ名古屋だけで、転属してきた関東北部の県庁所在地は約51万人、次の青森市は約29万人、今の名寄市は約3万人なのだ。ちなみにニューヨーク市の人口は約862万人で約220万人の名古屋の4倍弱だが東京13区の約964万人を下回っている。
「それに名張のお父さんやお母さん、お姉さんたちにも会えなくなる。連絡さえもできなくなるんだぞ」「そうでもないでしょう。貴方が別の職業の人間になり切れば連絡する手段はあるはずよ」どうやら「007」シリーズに限らずスパイ映画を見せ過ぎたようだ。確かに名古屋で交際を始めてからは映画館通いがデート・コースで結婚後もレンタルDVDで鑑賞していた。
「それじゃあ私が職場で『貴方が辞めたがっている』って愚痴をこぼして噂を流しておいた方が良いわね。理由は森田くんを退職させて組織に絶望したと言うところかな」これも正解だが、W稲田大学政治経済学部出身の松山3佐がそれほど軟(やわ)な人間性ではないことも熟知しているはずだ。古来、日本では政治を「汚れ仕事」と呼んでいたのだ。
「お前が別れたいと言うなら・・・」「キェーッ」松山3佐は裕美が自分の転進を後押しするため無理に賛同しているように感じ、逃げ道を与えようとした。すると正拳がテーブル越しに飛び、額を軽く打った。視線を向けると裕美は驚いたように目と口を全開にしていた。
「ごめんなさい。寸止めのつもりが練習不足で失敗したみたい」極真会館の道場は青森市内にはあったが、名寄市や旭川市にはないため裕美は昼休みに体育館で自主トレに励んでいる。サンドバッグを連打する練習ばかりでは寸止めを忘れても仕方ない。
「私は心も体も貴方だけの色に染められてきたんだよ。貴方が戦場に征くことになっても付いて行くよ」少し目を潤ませた裕美の感動的な言葉に松山3佐は新婚初夜での会話を思い出して苦笑してしまった。あの夜、ホテルのベッドで裕美は妙なことを説明した。
「私、バージンでも出血しないから安心して。空手の柔軟体操でヒーメンが破れちゃったんだ」「ヒーメン」とはモグラと人間にしかない処女膜のことだが、高校時代、体操部の女子が「開脚の練習で処女膜が裂けてしまった」と話しているのを聞いたことがある。初体験を前にそれをワザワザ説明する裕美が愛おしく柄にもなく燃え上がってしまった。
「有り難う。だけどお前は小春を守ることを優先してくれ」「はい、判りました。ボス」松山3佐の返事を聞いて裕美が立ち上がったまま目を閉じたので、それこそ柄にもないテーブル越しの口づけを交わしてしまった。この時だけは2人の役柄はジェームズ・ボンドとボンド・ガールだったのかも知れない。しかし、裕美は兎も角、松山3佐は完全にミス・キャストだ。

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  1. 2019/12/06(金) 12:43:56|
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