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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月7日・近江屋事件の延長戦?天満屋事件が発生した。

慶応3(1868)年の11月17日に京都四条の近江屋で土佐藩の郷士で実像は稀代の悪徳武器商人であった坂本竜馬さんと短絡思考の暴走族の中岡慎太郎さんが斬殺された事件をいろは丸衝突事故で坂本の口先に負けて巨額の賠償金を奪い取られた紀州藩の仕業と思い込んだ海援隊の陸奥宗光さんと陸援隊の谷干城さんが明日12月7日に両隊士14名を率いて紀州代表だった三浦休太郎さんが宿泊している京都油小路の天満屋を襲撃して警護に当たっていた新撰組隊士と斬り合いになった事件が発生しました。
海援隊の首謀者の陸奥さんの出自は奥州伊達家から分家した駿河伊達家の家系で独眼竜政宗公の血統を誇示するため陸奥姓を名乗っていましたが(政宗公の末子で伊達騒動の黒幕として土佐・山内家の預りになった兵部宗勝さまの子孫を自称していた)、紀州藩士として勘定奉行職を務めた家柄です。ところが父親が藩内の政争に敗れて失脚したため困窮することになり、紀州藩を逆恨みして屈折した感情を抱いていたようです。
陸援隊の谷さんは土佐藩士で(元は郷士で父親が上士に採り立てられた)、当初は狂人・武市瑞山さんの扇動に乗って尊皇攘夷の熱に浮かされていましたが、武市さんが失脚・自刃すると長崎から上海に遊学することになり、そこで西洋の近代的軍事力を目の当たりにして開国派に転じました。その後、西南戦争では熊本鎮台司令官として熊本城を守り、西郷南洲翁の薩摩軍の攻撃を阻止しました。
被害者の三浦さんは紀州藩の支藩・西条藩士の小川家に生まれ、昌平坂学問所に入所中には日本近海への外国船の来航が相次いだことから水戸学の尊皇攘夷思想に染まったこともあったようです。帰参後は三浦家の養子になり、第14代将軍継嗣問題で紀州藩主の徳川慶福公の擁立の実現に貢献したことで主家である紀州藩士になりました。そうして前述のいろは丸衝突事故では紀州藩の代表として坂本さんと交渉することになりますが、海軍操練所出身で海洋法の予備知識を持ち、元来は商売人の坂本さんの口先に勝てるはずもなく83000両もの破格の賠償金を奪われることになったのです。後に第13代東京府知事に就任しています。
事件は三浦さんと大垣藩京都留守居役の井田五蔵さんが共謀して近江屋を襲撃させたと言う風説を陸奥さん以下の海援隊士と谷さんの陸援隊士が聞きつけたことが発端ですが、逆に紀州藩も襲撃の噂を察知して会津藩を通じて新撰組に警護を依頼しており、三浦さんは京都で勇名が鳴り響いていた斉藤一さんと大石鍬次郎さんを含む7名に守られて安心して2階で酒席を開いていたのです。
奇襲を受けた三浦さんは面識のない十津川郷士に「三浦氏はそこもとか」と確認を受けて斬りつけられましたが左頬に傷を負っただけですみました。しかし、16名対10名以下では流石の新撰組も防戦一方になり、部屋の灯りを消して暗闇での斬り合いにして凌ぎ切ったのです。この斬り合いで近藤勇さんの従弟を含む新撰組隊士が2名、襲撃側も1名が死亡しています。
襲撃側が三浦さんの面貌を熟知していたことなどから陸奥さんが主導した可能性が高く、かなり私怨も絡んだ襲撃だったのでしょう。
陸奥亮子陸奥宗光の後妻・亮子
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  1. 2019/12/06(金) 12:46:31|
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