FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月20日・果ての二十日

明日12月20日は古来、京都や関西地方では凶事が起こる「果ての二十日」と忌み(12月を年末の「果ての月」と呼んでいた経緯もある)、年末の多用な時期であっても何もしないように努め、外部との接触を避けて身を正して家の中で過ごしていました。
その由来としては平安中期の武将・源頼光さまの家臣=四天王の筆頭である渡辺綱さんが暗夜に京都一条戻り橋を通りがかると若く美しい娘に「夜道は恐ろしいので家まで送って欲しい」と頼まれ、不審に思いながらも馬に乗せて進み始めると娘は鬼女に豹変し、髷(まげ)を掴んで愛宕山に向かって飛んでいったのですが、綱さんが源氏重代の銘刀・友切り(後に「髭切り」に名前を変えた)で腕を斬り落として助かったのが12月20日だったとされています。この逸話は平家物語の剣巻や今昔物語の27巻・本朝付霊鬼に記されており、腕を失った鬼女が綱さんの母に化けて屋敷に訪ねて来て「死ぬ前に息子の武勇の証である鬼の腕を見せてもらいたい」と懇願いて奪い返したと言う後日譚がつけ加えられています。ちなみに一条戻り橋は平安京が造営された時に北から流れる堀川に架けられた橋で、後に源氏一門が屋敷を構えたため綱さんも別邸(自宅は摂津=大阪市西成区渡辺にあった)に帰宅する途中だったのでしょう。また陰陽師・安倍晴明さんの屋敷(現在の晴明神社)にも近く、この橋の下に12神将の像を隠したまま亡くなり、平清盛さまの娘・徳子(なるこ)さんが高倉天皇に入内して妊娠した時、母親の時子さんが橋の上で吉凶を占うと12人の子供が姿を現して「皇子が生まれる」と手拍子を打ちながら唄い踊ったと言う伝説もあります。何よりも京都の中心部への入り口だったため千利休さんや島津歳久さんなどの首が晒され、秀吉さんによって島原で処刑されたキリシタンたちは出発前にここで耳を削ぎ落とされています。なお、一条戻り橋はその名前から嫁入りする時には「縁起が悪い」と花嫁行列は避けて通らず、逆に武士の出陣や明治以降の出征兵士は「無事の生還」を願って必ず渡っていたようです。
また江戸時代になると12月20日は東海道の京都の到着地の粟田口にあった刑場で処刑が執行される日になり、出歩くと刑死した罪人の怨霊に憑依されるからと外出を控えるようになったと言われています。江戸時代には京都における刑の執行は年3回と定められており(9月22日も)、1000名に達した時点で洛中の佛教寺院が供養塔を建立していて、その数は15基に達していたそうですが、明治期の廃佛毀釋によって全て破壊され、当時、建設を進めていた西洋風建築物の礎石に転用されたと言われています。そうなると刑死者の怨念は鎮まることなく迷い彷徨うことになりますが、明治的合理主義で「果ての二十日」と言う風俗は消えていったようです。尤も、京都は「秘かに」「ウチらだけ」が得意なのでこの日に街中を浮かれて闊歩しているのは観光客だけなのかも知れません。
余談ながらクリスマス商戦はこの時期に最盛期を迎えていますが本来は1月7日のイエスの降誕日をカソリックが冬至に合わせて12月25日にしたのであって、中国の道教でも冬至には庚申が天上に悪事を告げ口に行くのを阻止するため家で徹夜をする風習があり、あまり浮かれてばかりいては好いことはなさそうです。
スポンサーサイト



  1. 2019/12/19(木) 13:23:26|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1770 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1769>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5833-3ee23446
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)