FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月26日・艦隊派の犠牲者・水城圭次大佐が自決した。

昭和2(1927)年の明日12月26日にワシントン海軍軍縮条約による海軍力の制限に過剰反応した艦隊派の加藤寛治連合艦隊司令長官の無謀な訓練によって発生した美保関事故の責任を負って軽巡洋艦・神通の艦長・水城(みずしろ)圭次大佐が自決しました。
帝国海軍は大正10(1921)年に締結されたワシントン海軍軍縮条約でイギリス、アメリカとの主力艦の保有比率を10対10対7と要求していながら5対5対3に制限されたことに不満を抱いた艦隊派の首魁・加藤司令長官が認知症が始まっていた「生ける軍神」・東郷平八郎元帥に泣きついたところ「訓練に制限はない」とのご託宣を受け、殊更に困難・危険を追い求める常軌を逸した無謀な訓練を始めたのです。
しかし、条約を締結した時点での主力艦の保有数はイギリスが30隻、アメリカが20隻に対して日本は11隻だったのでこの比率はむしろ増強を容認されたと見るべきでした。実際、イギリスは30隻を保有していてもスエズ運河や南アフリカ経由でインド、シンガポールに至る長大な航路の防衛を果たさなければならず、アメリカも太平洋と大西洋の2正面に艦隊を展開しなければならないため日本のイギリス、アメリカの10に対して7と言う比率は国力を無視した妄想に等しいものでした。それでも加藤司令長官は訓練の危険性を危惧する現場の声も生ける軍神のご託宣を盾に受けつけず、艦乗りたちも勇気・技量の欠如と評されるのを惧れ、平時に死を覚悟する異常な状態に陥って行ったのです。
美保関事故は昭和2(1927)年8月24日(=月齢は4分の1強だった)に島根県美保関沖の日本海に連合艦隊が主要艦艇を終結させて実施した夜間演習で発生しました。この演習は戦艦6隻と軽巡洋艦4隻をイギリス、アメリカ艦隊に見立てた甲艦隊として、これを水雷戦隊の乙艦隊が夜間に無灯火で接近して攻撃を加えると言うものでしたが(まだレーダーはなかった)、演習直前に第1水雷戦隊の駆逐艦8隻が第2水雷戦隊に編入されて攻撃に加わることになりました。
こうして始まった演習では午後11時過ぎに甲艦隊に肉薄した軽巡洋艦・神通と那珂が探照灯の照射を受け、これを被弾と判定されて右に離脱したところ後続してきた重巡洋艦2隻と第1水雷戦隊から編入された駆逐艦8隻の艦隊に突っ込む形になり、神通と駆逐艦・蕨が衝突して神通の艦首の水面下が破損・欠落、蕨はボイラー付近が爆発して沈没、さらに事故を回避しようといた那珂も駆逐艦・葦と衝突して大破したのです。殉職者は蕨が艦長以下91名、葦が27名で遺骸はほとんど収容できませんでした。
この事故を受けて神通の水城艦長が業務上過失、艦船覆没、業務上過失罪で告発され、軍事裁判にかけられたのですが、判決前日のこの日に自宅で自決したのです。ところが自分の勝手な過剰反応で無謀な演習を強行した加藤司令長官は取材を受けると「真剣な訓練と絶対安全とは中々両立し難いものだ」と発言したように反省の色はなく、本人は元帥に色気を見せながらも大将のまま退役し、昭和14(1939)年に病没しています。
水城大佐は砲術士官だったため砲声で重度の難聴になっており、艦長としても艦橋内での会話が聴き取れず、それで判断が遅れたと言われています。
スポンサーサイト



  1. 2019/12/25(水) 13:42:07|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1776 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1775>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5845-fb311064
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)