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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月5日・山本五十六大将よりも大物?永野修身元帥が病死した。

昭和22(1947)年の明日1月5日にA級戦犯として巣鴨拘置所に収監されていた永野修身元帥が肺炎により搬送された聖路加(るか)病院で病死しました。67歳でした。
永野元帥は帝国海軍の3つの重要補職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の提督であり、同様に帝国陸軍で3長官の参謀総長、陸軍大臣、教育総監を経験したのは上原勇作元帥と杉山元元帥が唯二です。
永野元帥は明治13(1880)年に高知県で生まれましたが少年時代から政治家志望で、東京帝国大学を受験する前の度胸試しで海軍兵学校を受験したところ2位の成績で合格したため周囲に説得されてこちらを選んだのです。海軍兵学校に入校しても政治や経済、外交や科学などの専門書を読み耽っていましたが、明治33(1900)年にやはり2位で卒業したそうです。
司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」に取り上げられていないためなのか全く知られていないものの日露戦争の旅順要塞攻城戦で威力を発揮した28サンチ要塞砲は海軍の鎮守府の防御用火砲のため永野中尉も海軍士官として射撃の指導に当たっていたのですが、海軍の砲撃は目視で敵艦を狙い、命中させる加農(カノウ)砲式で高い弾道を描いて着弾させる榴弾砲式の射撃は経験がなかったのです。そこを永野中尉は着弾の縦深の誤差も計算する方法を研究・習得して203高地の頂上を観測点として旅順港内に逃げ込んでいた帝政ロシア海軍の太平洋艦隊に精密・正確な砲弾を浴びせて壊滅する軍功を上げたのです。旅順開城後は大尉に昇任して同郷の島村速雄少将が司令官だった第2艦隊の第4戦隊副官になりますが、第2艦隊は逃走を遮断する任務だったため連合艦隊主力によって帝政ロシアのバルチック艦隊が壊滅されたことで出番はなかったようです。
日露戦争終結後の明治42(1909)年には海軍大学校に入校し、続いてアメリカのハーバード大学に留学、大正4(1912)年に帰国してからは海上の艦隊と地上の海軍省・軍令部を往復しながら国際会議に出席する国際派としての勤務になりました。
その中で特筆すべき軍歴が昭和3(1928)年から2年間務めた海軍兵学校長で、永野中将は日本の軍(残念ながら自衛隊も)の学校の知識を丸暗記させ、型にはめる規格品の大量生産に疑問を持ち、欧米でも先進的過ぎてまだ定着していなかった生徒が自分で学習計画を立案し、教官は知識の点検と進度の確認するダルトン式教育を導入しました(野僧の小学校は文部省指定のモデル校でした=こんな自衛隊士官が出来上がる!)。
A級戦犯に指定された訴追事由は真珠湾作戦を許可したことですが、実際は帝国海軍内ではアメリカの実力を最も熟知しており、公判では実際に作戦を強行した山本五十六連合艦隊司令長官に責任を負わせることはなく一身に帝国海軍の罪を買い集めていたそうです。
敗戦後に製作された戦争映画では山本司令長官が完全無欠の英雄として描かれているため、永野元帥はその博打のような無謀な作戦に異議を唱える頭が固い守旧派常識人=雄図を妨げる障壁のような印象を持たれがちですが、実際は映画「太平洋奇跡の作戦キスカ」で志村喬さんが演じていたような大人物だったのでしょう。
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  1. 2020/01/04(土) 13:24:40|
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