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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月10日・東京裁判で正論を述べたパル判事の命日

1967年の明日1月10日は戦勝国が敗者を処刑するための形式的手順に過ぎなかった東京裁判でオランダのベルナルト・ヴィクトール・レーリンク判事と共に唯2人正論を述べたインド人判事・ラダビンド・パル判事の命日です。80歳でした。日本ではラダ・ビノード・パールと言うヒンドゥー語での呼称が一般的ですがパル判事はベンガル人なのでここではベンガル語の読みを採用することにします。
パル判事は1886年に現在はインドでもバングラデッシュに接している西ベンガル州で生まれましたが、3歳で父親を失くしたため母親の独力で育てられたそうです。インド人らしく幼い頃から数学者を目指していましたが、母親はインドの独立と建国のためには優秀な行政官・法学者が必要と考え、1907年にカルカッタ=現在のコルカタのカレッジで理学士を修得した後、カルカッタ大学の理学部と法学部の2つに進学させ、1920年には最優等の成績で司法試験に合格しました。さらに1924年にはヒンドゥー法哲学の研究論文でカルカッタ大学から法学博士号を授与されています。
1923年からカルカッタ大学の法学教授として勤務し、1927年にはインド植民地政府の法律顧問となり、1941年からは長期休暇に入った判事の代行としてカルカッタ高等裁判所の判事を務め、1944年にはカルカッタ大学の総長に就任しています。
そして、第2次世界大戦後の1946年7月に独立運動の高まりによる混乱で連合軍から要請を受けていた東京裁判の判事の差し出しを失念していた植民地政府の担当者の手続きミスで3月に大学総長を退任したパル判事が選任されて東京に赴くことになりました。
東京裁判では同時進行でナチス・ドイツを裁いているニュルンベルク裁判を踏襲するように連合軍から圧力を受けていたため共通する罪状での起訴になりましたが、パル判事は主導的に戦争を開始したナチス・ドイツと戦争に追い込まれた大日本帝国では開戦の動機が全く異なり、中でもA級戦犯が訴追されている「平和に対する罪」はこの裁判のために新設された事後法と断じて被告全員を無罪としました(日本共産党は第1次世界大戦後に制定されていた国際連盟規約や不戦条約を無視していると批判している)。
さらに南京事件やバターン死の行進、捕虜虐待や文民殺害などの日本軍による戦争犯罪は実行した部隊と個人を個別に裁くべきであり、「この裁判は日本の第2次世界大戦への参戦以降を対象とするべきだ」「ナチス・ドイツによるホロコーストに比肩する人類に対する戦争犯罪はアメリカ軍による原爆投下だ」と否定しました。
このようなパル判事の主張を日本人は「敗戦国日本に同情してくれた」「同じアジア人として日本人の真情を理解してくれた」「イギリスによる植民地支配に対する反発があった」などと自分に都合よく解釈していますが、後年、本人は「日本に特別な好意を持っていた訳ではなく、あくまでも国際法の正当な運用を求めただけだ」と繰り返し述べています。
この戦勝国の戦争を正当化する政治目的の公判を拒否し、法学者としての正論を主張したパル判事にオランダのレーリンク判事も共鳴しましたが、連合軍が全員一致の要望は取り下げて多数決制を採用したためニュルンベルク裁判に準じた判決が下りました。
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  1. 2020/01/09(木) 14:01:50|
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